第36話 泣いている子に、お茶を
黒い外套の男の子は、僕を見ると、ぎゅっと体を縮めた。
「こ、こないで……」
声が、震えている。
その瞬間、男の子の足もとの雪が、ぱきぱきと音を立てて、黒く凍りついた。霜が、僕に向かって、這ってくる。
けれど、僕の胸元で、ミレイの青い石が、ほのかに光った。首のマフラーも、あたたかい。外套の中で、ギンが、ぎゅっと僕にしがみついた。
黒い霜は、僕の足もとの手前で、ぴたりと止まった。
(……近づくのは、だめだ)
僕は、ゆっくりと、その場に腰を下ろした。男の子から、五歩ほど離れた、雪の上に。
「こんにちは」
「…………」
「僕は、ケン。ただの、薬屋の弟子だよ。ここに、座ってもいいかな」
男の子は、何も答えなかった。ただ、涙でぐしゃぐしゃの目で、じっと僕を見ていた。
僕も、何も言わなかった。
「泣かないで」とも、「大丈夫」とも、言わなかった。
前の世界で、僕が一番言われたくなかった言葉は、「そんなことで泣くな」だったから。
しばらく、谷には、男の子のしゃくりあげる声だけが、響いていた。
白い狼が、横たわったまま、静かに、僕たちを見守っている。
やがて、男の子が、ぽつりと言った。
「……どうして、こおらないの」
「え?」
「みんな、ぼくに、ちかづくと、こおっちゃうのに」
「ああ、これ」
僕は、胸元の青い石と、マフラーを、そっと握った。
「友達がくれた石と、妹が編んでくれたマフラーと、友達の、小さな狐の髭。みんな、あったかいんだ。だから、凍らないんだと思う」
「……ぼくも、あったかいの、あった」
男の子の声が、かすれた。
「おかあさんが、いたとき」
* * *
男の子の名前は、ルカといった。
八歳。母さんと二人で、国境の向こうの小さな町で、暮らしていたらしい。
「おかあさん、びょうきだったの。ずっと、ずっと、ねてて」
ルカは、膝を抱えて、とつとつと話した。
「おくすり、ほしかったけど、おかね、なくて。だから、ぼく、おかあさんに、いったの。ぼくが、くすり、さがしてくるって」
「ひとりで?」
「うん。そしたら、おかあさんが、いったの。『きたの、こおりのたにに、いきなさい。なみだが、さくとき、あえるから』って」
ルカの目から、また、大粒の涙が、こぼれた。
「ぼく、あるいたの。ずっと、ひとりで。でも、たにについたら」
ルカは、谷の奥を、震える指でさした。
「おかあさんが、いたの」
僕は、息をのんだ。
谷の奥、白い氷の壁の中に、人影が、閉じ込められていた。
長い黒髪の、痩せた女の人。目を閉じて、胸の前で、手を組んでいる。透きとおった氷の中で、まるで、眠っているように見えた。
「おかあさん、ここに、きてたの。ぼくより、さきに。……でも、うごかないの。おこしても、おこしても、うごかないの」
ルカの声が、しゃくり上げる。
「おかあさん、しんじゃった。ぼくが、おそかったから」
「…………」
「ぼくが、もっと、はやく、あるいてたら」
「ルカ」
僕は、静かに、名前を呼んだ。
「遅くなんかないよ。八歳の子が、ひとりで、北の国境まで来たんだ。それは、すごく、すごく、頑張ったってことだ」
「でも、おかあさん」
「うん。悲しいよね。会いたいよね」
ルカの肩が、小さく、震えた。
「ここまで、ひとりで、つらかったね」
その言葉を聞いた瞬間、ルカの顔が、くしゃりと、歪んだ。
「う……うわああああん!」
堰を切ったように、ルカは、声をあげて泣き出した。
黒い霜が、ぱきぱきと、また広がる。僕のまわりの雪が、ざわりと波打った。
僕は、動かなかった。
ただ、その場に座って、ルカが泣くのを、そばで、見守っていた。
どれくらい、時間が経っただろう。
ルカの泣き声が、少しずつ、小さくなっていった。
しゃくりあげる声だけが、ひく、ひく、と残る。
僕は、鞄から、小さな鍋を取り出した。雪の上に置いて、狐火の代わりに、持ってきた携帯の火種を、そっと灯す。
月光草と、黄花草と、ヴォルフさんの生姜に似た根。昨夜と、同じお茶を、ゆっくりと煮出した。
甘くて、少しピリッとした香りが、凍った谷に、ふわりと広がる。
「……いいにおい」
ルカが、鼻をすすりながら、顔を上げた。
「お茶、淹れたんだ。ルカも、飲む?」
「…………」
「無理には、勧めないよ。ここに、置いておくから、飲みたくなったら、飲んで」
僕は、小さな杯に、お茶を注いで、雪の上に、そっと置いた。僕とルカの、ちょうど、まんなかあたりに。
杯から、白い湯気が、ゆらゆらと立ちのぼる。
ルカは、じっと、その湯気を、見つめていた。
やがて、小さな手が、そっと伸びた。
杯に、触れた、その瞬間。
ルカの指先から、黒い霜が、杯に向かって、広がろうとした。
「あっ……」
ルカが、慌てて、手を引っ込める。
けれど、杯は、凍らなかった。
淡い金色の光が、杯のまわりで、ふわりと揺れて、黒い霜を、押し返したのだ。
「……こおらない」
「うん」
「どうして?」
「このお茶は、悲しい人のために、淹れたからだと思う」
ルカは、もう一度、そっと、杯を両手で包んだ。
黒い霜は、広がらなかった。
ルカは、ゆっくりと、杯を口に運んだ。
こくり。
こくり。
飲み干した瞬間、ルカの目が、まん丸になった。
「……あまい」
「でしょ」
「あったかい。おなかの、おくの、ほうまで」
ルカの目から、また、涙が、ぽろぽろと、こぼれた。
けれど、今度の涙は、さっきとは、違っていた。
足もとに落ちた涙は、黒い霜にならなかった。かわりに、小さな、透明な雫になって、きらりと、光った。
「ルカ、見て」
「え……?」
足もとの雪が、じわじわと、溶けていく。黒い霜が、少しずつ、薄れていく。
谷じゅうの氷が、ぱきん、ぱきんと、きしむような音を立てた。
そして、横たわっていた白い狼が、ゆっくりと、頭を持ち上げた。
『……よくやった、月光の薬師よ』
低くて、深い、けれど、安堵に満ちた声。
『この子の、凍りついた涙を、ほどいてくれた』
「守り手さま……!」
『まだ、すべてでは、ない。悲しみの根は、深い。だが、最初の一歩は、踏み出せた』
ルカが、ぽかんと、狼を見つめていた。
「おおかみさん、しゃべった……」
『ずっと、おまえのそばに、いたぞ。小さき者よ』
狼は、ルカに、鼻先を、そっと寄せた。
ルカは、おそるおそる、その白い毛並みに、手を伸ばした。今度は、霜は、広がらなかった。
「……ふかふか」
「ね」
僕は、思わず、笑った。
* * *
それから、ルカは、僕の隣で、ふたり並んで、お茶を飲んだ。
ルカは、少しずつ、話してくれた。
母さんの好きだった、歌のこと。ふたりで食べた、固いパンのこと。夜、眠れないとき、毎晩、頭を撫でてくれたこと。
僕は、ただ、うなずきながら、聞いていた。
話し終えると、ルカは、疲れたように、こくりこくりと、舟を漕ぎ始めた。
「眠っていいよ。ここに、いるから」
「……うん」
ルカは、僕の膝に、頭を預けて、すうすうと、寝息を立て始めた。
その寝顔を見ながら、僕は、胸の奥が、じんと熱くなるのを、感じた。
(あの夜の僕にも、こうして、そばにいてくれる人が、いたらよかったな)
そう思ったとき、ふと、気づいた。
霧に預けた記憶の、ほんのすこしの欠片が、胸の奥で、ちくりと、疼いた。
(……もう少しで、返してもらえるのかもしれない)
その予感は、不思議と、怖くなかった。
* * *
しばらくして、僕は、そっと、ルカの頭を、外套の上に寝かせた。
そして、谷の奥の、氷の壁に、近づいた。
透きとおった氷の中に、黒髪の女の人が、静かに、立っている。
痩せた頬。閉じた目。組んだ手。
そして、首元には、小さな、銀色のペンダントが、かかっていた。
月の形の、紋章。
(……あれ?)
僕は、はっと、息をのんだ。
どこかで、見たことがある。
ヴォルフさんのノートに、描かれていた、あの紋章。ルナリア家の、印。
「まさか……」
僕は、震える手を、氷にかざして、心の中で、唱えた。
(……雑草鑑定。状態鑑定)
文字が、浮かび上がる。
【名称:セレナ・ルナリア】
【状態:生存。氷涙草の力により、凍眠状態で保たれている】
【備考:ルナリア家の最後の血を引く者。七つの草の「継承の儀」のため、この谷を訪れた】
【警告:息子ルカの悲しみが、儀式を妨げている。このままでは、凍眠が解けず、命の火が尽きる】
「…………!」
ルカは、母さんが死んだと、思っている。
でも、違う。
生きている。
氷の中で、ずっと、眠っているだけだ。
僕は、振り返った。
眠っているルカの、あどけない寝顔。
そして、その首元から、ちらりと、のぞいたもの。
小さな、月の形の、銀色のペンダント。
母親と、同じ紋章だった。
(ルカは、エレナさんの、血縁……?)
息を、ひとつ、深く吸った。
ルカの悲しみを溶かすだけじゃ、足りない。ルカの母さんを、目覚めさせなきゃ、いけない。
そしてそれは、きっと、ルナリア家の、七つの草の、本当の意味に、つながっている。
谷の外では、ユキと、銀牙さんが、待っている。
村では、凍りついた雪の民が、眠っている。
そして、遠い王都では、ヴォルフさんとハンナさんが、僕の帰りを、待っている。
僕は、拳を、ぎゅっと握りしめた。
(のんびり、暮らしたい)
その気持ちは、少しも、変わらない。
でも、目の前の誰かが、助けを待っているなら。
僕は、お茶を、淹れ続ける。
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――第37話へ続く――




