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第35話 夜明け前の出発と、雪の降る国境

三日では遅い。

その言葉が、頭の中で、何度も響いた。

僕は、氷の箱の前に立ったまま、じっと、枯れかけた氷涙草を見つめていた。

「ケン?」

背後から、ハンナさんの声がした。いつのまにか、寝間着のまま、戸口に立っている。

「……聞こえてたんですか」

「年寄りは、眠りが浅いのさ」

ハンナさんは、氷の箱をのぞき込んで、小さくため息をついた。

「決めたんだね」

「はい。明日の夜明けに、出ます」

「三日の約束は?」

「ユキには、僕から話します。守り手さまが、待てないと言うなら、待たせるわけには、いきません」

ハンナさんは、しばらく黙っていた。

それから、ぽつりと言った。

「ヴォルフを、叩き起こしてくる。北の凍傷や、霜の病なら、あの男が一番詳しい」

「えっ、今から?」

「当たり前だよ。旅支度は、一晩で、仕上げるんだ」

ハンナさんは、くるりと背を向けて、袖をまくった。その背中は、少しも老いを感じさせなかった。

* * *

それから、薬屋は、夜中なのに、大騒ぎになった。

「ヴォルフ、霜解けの薬は、ありったけ出しな!」

「義姉さん、在庫は、三瓶しか」

「なら、今から煎じるんだよ!」

「い、今から!?」

ヴォルフさんが、寝ぼけ眼のまま、鍋を引っぱり出す。ユキは、目を覚まして、状況を聞くと、毛布から飛び出した。

「ケン様、本当に、明日の朝に」

「うん。ごめん、三日って言ったのに」

「いえ……いえ、いえ! ありがとうございます……!」

ユキは、何度も、頭を下げた。目に、涙がにじんでいる。

「様は、いらないよ。ケンでいい」

「は、はい。ケン……さん」

「それも、ちょっと、固いなあ」

少し笑うと、ユキの肩から、ふっと力が抜けた。

僕は、ハンナさんの鞄に、月光草の乾燥葉、澄み草の布、星影草の若葉の包みを、詰めていった。ミレイの薬草ノートも、いちばん上に、そっと入れる。

そのとき、台所の戸が、がらりと開いた。

「お兄ちゃーん!」

リナが、毛糸の塊を抱えて、駆け込んできた。後ろから、母さんが、ランプを持って、追いかけてくる。

「リナ、まだ、起きてたの?」

「ううん、おきちゃったの! お母さんが、お兄ちゃんが、あさ、でかけるって!」

母さんは、少し目を赤くして、でも、にっこり笑った。

「ケンは、ひとりで、全部決めてしまうんだもの。これくらい、許してちょうだい」

「母さん……」

リナが、毛糸の塊を、僕に差し出した。

「あのね、まだ、できてないの。でも、あったかいのは、ほんとうだよ」

それは、淡い水色の、小さなマフラーだった。片方の端が、まだ、毛糸のままだ。

「のこりは、あとで、おくるね。ぜったい」

「……ありがとう。大事に、するよ」

僕は、マフラーを、首に巻いた。ふわふわで、ほんのり、リナの匂いがした。

* * *

東の空が、ほんの少し、白んできた。

薬屋の前には、村の人たちが、集まっていた。

ゴードンじいさんと、おじいさん連合。村のおばさんたち。ダリオさんが連れていた、子どもたちの見張り隊。

「ケン坊ー!」

「いってらっしゃい!」

「ちゃんと、帰ってくるんだぞ!」

口々に叫ぶ声に、胸が、いっぱいになる。

「ありがとうございます! 行ってきます!」

僕は、大きく、手を振った。

それから、村の南の橋へ、向かった。

橋のたもとに、一台の馬車が、停まっていた。学院へ向かう、ミレイの馬車だ。

その横で、ミレイが、腕を組んで、仁王立ちしていた。

「遅い」

「ごめん。ちょっと、バタバタして」

「知ってるわよ。大騒ぎだったもの」

ミレイは、ぷいっと横を向いた。目の下に、うっすらと、くまがある。

「……眠れなかったの?」

「あんたこそ」

僕たちは、少しだけ、黙った。

橋の上を、朝の風が、吹き抜けていく。

「ミレイ」

「何よ」

「ノート、ありがとう。大事に使うよ」

「当たり前でしょ。汚したら、承知しないんだから」

ミレイは、ポケットから、何か小さなものを、取り出した。

「これも、持っていきなさい」

手のひらに乗せられたのは、小さな、青い石のペンダントだった。ひんやりと、冷たい。

「学院の、友達からもらった、お守り。『寒さ除け』の石なんだって。私は、もう、使わないから」

「そんな、大事なもの」

「いいの! ほら、早く、つけなさい!」

ミレイが、むっとした顔のまま、僕の首に、ペンダントをかけてくれた。指先が、震えていた。

「……絶対、帰ってきて」

「うん」

「手紙、毎日よ」

「うん」

「ちゃんと、食べて、ちゃんと、寝て」

「うん」

「……学院で、待ってるから」

ミレイの声が、少しだけ、かすれた。

「じゃあね、ケン」

「うん。またね、ミレイ」

ミレイは、くるりと背を向けて、馬車に飛び乗った。扉が閉まる直前、窓から、手がひらりと出て、小さく、振られた。

馬車が、ゆっくりと、遠ざかっていく。

僕は、その姿が見えなくなるまで、橋の上に、立ち尽くしていた。

『ケン』

足もとで、ギンが、僕を見上げた。

『さびしい?』

「……ちょっと」

『ぼくが、いるよ』

「うん。ありがとう」

僕は、ギンを抱き上げた。ふわふわの毛が、あたたかかった。

* * *

森の入り口で、白鹿さまが、待っていてくれた。

『人の子よ。北の空の変化は、我も感じている。乗りなさい』

「また、お願いします、白鹿さま」

銀牙さんも、静かに、頷いた。

「我も、同行する。氷の山は、森の者にとっても、無縁ではない」

ユキと、僕と、ギンと、銀牙さんが、白鹿さまの背に乗る。

「出発します!」

風が、うなった。

森の木々が、光の線になって、後ろへ流れていく。星影草の道が、金色に、足もとを照らす。

やがて、森が、途切れた。

その先に、広がっていたのは、白い、平原だった。

「……雪?」

夏の終わりのはずなのに、一面が、雪に覆われている。風が、頬に突き刺さるように冷たい。

『ここが、北の国境だ』

白鹿さまが、足を止めた。

『我は、ここまで。これより先は、雪の民の領域。森の者は、入れぬ』

「ありがとうございました」

『人の子よ。茶を、忘れるな』

白鹿さまは、金色の瞳で、僕を見つめて、森のほうへ、駆け戻っていった。

ユキが、白い息を吐きながら、前方を指さした。

「あの、霞んでいる山が、氷涙の山です。ここから、三日の道のりです」

「三日……」

「雪の民の村を、通ります。そこで、休めるはずです」

僕たちは、雪原を、歩き始めた。

足もとの雪が、ぎゅっ、ぎゅっと、音を立てる。吐く息が、白い塊になって、後ろへ流れていく。

「ケン、寒くない?」

ユキが、気遣うように聞いてきた。

「ううん、大丈夫。ミレイの石が、効いてるみたい」

胸元の青い石が、ほのかに、あたたかかった。

ふと、気づいた。

「ユキは、寒くないの? 外套、薄いよね」

「私は、雪の民ですから。寒さには、強いのです」

ユキは、小さく、微笑んだ。その笑顔は、まだ、少し、ぎこちなかった。

* * *

夕方、風が、強くなってきた。

「今夜は、ここで、野営しましょう」

銀牙さんが、岩陰を見つけて、狐火で、雪を溶かしてくれた。

小さな焚き火を囲んで、僕は、鞄から、小さな鍋を取り出した。

「ケン、何を作るの?」

「夏風茶、じゃなくて、冬向けの、あったかいお茶」

乾燥させた月光草と、黄花草、それに、ヴォルフさんが持たせてくれた、生姜に似た根を、鍋に入れる。ゆっくり煮出すと、甘くて、少しピリッとした香りが、広がった。

「いい匂い……」

ユキが、うっとりと、目を細めた。

「はい、どうぞ」

「……ありがとう」

ユキは、両手で杯を包んで、ふうふうと、息を吹きかけた。

ひとくち飲んで、小さく、息を吐く。

「……不思議。これまで、お茶を飲んでも、ちっとも、あたたまらなかったのに」

「え?」

「雪の民は、体が、冷えやすいんです。守り手さまが倒れてから、さらに、冷たくなって。……でも、このお茶は、体の真ん中から、じんわり、あたたかくなります」

ユキの目に、また、涙が浮かんだ。

「ごめんなさい。泣くつもりは、なかったのに」

「泣いていいよ」

僕は、そっと言った。

「ずっと、ひとりで、頑張ってきたんだから」

ユキは、杯を持ったまま、肩を震わせた。

静かな雪原に、焚き火の音だけが、ぱちぱちと響いていた。

銀牙さんは、少し離れて、見張りをしている。ギンは、僕の膝の上で、丸くなって、眠っていた。

* * *

夜が、深まった。

僕は、ふと、あることを、思い出した。

氷の箱の中の、氷涙草。あの草を、「記憶鑑定」で、見てみたら、何かわかるかもしれない。

そっと、箱を取り出す。

冷たい箱の中で、青白い草が、ほとんど枯れかけて、震えていた。

僕は、心の中で、唱えた。

(……雑草鑑定。記憶鑑定)

視界が、ぐにゃりと、歪んだ。

気づくと、僕は、真っ白な、氷の谷に、立っていた。

目の前に、大きな、白い狼が、横たわっている。毛並みには、黒い霜が、びっしりと、張りついていた。

その狼の傍らに、小さな人影が、うずくまっていた。

男の子だ。歳は、七、八歳くらい。黒い外套を着て、顔を伏せて、ずっと、泣いている。

「ひっく……ひっく……」

その泣き声が、谷じゅうに、響いていた。

涙が、地面に落ちるたび、そこから、黒い霜が、ぱきぱきと、広がっていく。

(あの子が……黒い霜の、原因……?)

狼が、ゆっくりと、顔を上げた。

金色の瞳が、まっすぐ、僕を見た。

『……よく、来た。月光の薬師よ』

低い声が、頭に響いた。

『この子は、悪くない。ただ、悲しいだけなのだ』

「あなたが、守り手さま……」

『三日前、この子は、谷に迷い込んだ。母を、亡くしたのだという。あまりの悲しみに、涙が、止まらぬ』

狼は、男の子を、そっと、鼻先で撫でた。

『その涙が、「凍りついた悲しみ」となって、わしの体と、谷の氷を、蝕んでいる』

「悲しみ、が……」

『わしには、どうすることも、できぬ。わしにできるのは、この子を、傍で、守ることだけ』

男の子が、はっと顔を上げた。

その目から、また、大粒の涙が、ぽろぽろと、こぼれる。

「かあさん……かあさん……」

その声が、胸に、突き刺さった。

『薬師よ。この子の悲しみを、溶かせるのは、おそらく、お主の「茶」だけだ』

「僕の、お茶……」

『急げ。この子の悲しみは、日ごとに、深くなる。……もう、あまり、時間がない』

景色が、ぐらりと、揺れた。

* * *

「……ケン! ケン!」

誰かが、僕の肩を、揺さぶっていた。

目を開けると、ユキの、心配そうな顔が、目の前にあった。

「大丈夫ですか!? 氷の箱を持ったまま、ぼうっとして」

「……うん。ごめん。大丈夫」

僕は、深く、息をついた。

「ユキ。氷涙の谷に、小さな男の子が、いなかった?」

「え……?」

ユキの顔が、さっと、こわばった。

「どうして、それを」

「やっぱり、いるんだね」

「……三日前、谷に、男の子が、迷い込みました。ひとりで。黒い外套を着て。最初は、私たちも、保護しようとしたのですが、近づくだけで、体が凍りついて」

ユキは、唇を、震わせた。

「守り手さまが、その子の傍に、残る、とおっしゃって。それで、私に、箱を託したのです」

「その子は、母親を、亡くしたんだ」

僕は、静かに、言った。

「悲しみが、止まらなくて、その涙が、黒い霜になって、谷を、凍らせてる」

ユキが、息をのんだ。

「そんな……」

「毒じゃない。悪い人がいるわけじゃない。ただ、ひとりの子が、泣いてるんだ」

僕は、夜空を、見上げた。

雪雲の切れ間から、二つの月が、ぼんやりと、光っていた。

(泣いている子に、お茶を、淹れてあげたい)

でも、その子の悲しみは、母親を失った、どうしようもない悲しみだ。

僕のお茶で、溶かせるのだろうか。

胸の奥に、小さな不安が、ともった。

けれど、僕は、拳を握りしめた。

(やってみなきゃ、わからない)

「ユキ。明日は、早く出発しよう」

「はい」

「それと、お願いがある」

「何でしょう」

「その子に、会ったら、僕に、最初に、話しかけさせてほしい」

ユキは、少し驚いた顔をして、それから、静かに、頷いた。

「わかりました」

夜の雪原に、焚き火の光が、ゆらゆらと、揺れていた。

* * *

翌朝。

僕たちは、日の出とともに、出発した。

昼を過ぎた頃、前方に、小さな集落が、見えてきた。

「あれが、雪の民の村です」

ユキが、足を速めた。

けれど、村に近づくにつれ、様子が、おかしいことに、気づいた。

煙突から、煙が、出ていない。人の声も、聞こえない。

「……静かすぎる」

銀牙さんが、低く、言った。

村の入り口には、数十軒の、雪に埋もれた家が、並んでいた。窓は、すべて、凍りついている。通りには、足跡ひとつない。

「みんな……?」

ユキが、震える声で、呼びかけた。

返事は、ない。

ユキが、一軒の家の扉を、押し開けた。

「……っ!」

中の光景に、ユキが、声を失った。

僕も、中をのぞき込んで、息をのんだ。

暖炉の前に、家族が、座っていた。

お父さん、お母さん、小さな子ども。

みんな、そのままの姿勢で、氷の中に、閉じ込められていた。目を閉じて、まるで、眠っているように。

(……雑草鑑定。状態鑑定)

【名称:雪の民(凍眠状態)】

【状態:生存。魔力が、悲しみの霜に吸われ、深い眠りに陥っている】

【備考:悲しみの根が、断たれれば、目を覚ます】

「生きてる……!」

僕が言うと、ユキの目から、ぼろぼろと、涙がこぼれた。

「よかった……よかった……!」

「でも、早く、根を断たないと」

僕は、ユキの肩に、手を置いた。

「谷へ、急ごう」

「はい!」

僕たちは、村を駆け抜けた。

村の奥に、巨大な氷の山が、そびえている。その中腹に、ぽっかりと、青白い光を放つ、谷の入り口が、見えた。

近づくにつれ、空気が、ぴりぴりと、張りつめていく。

そして、谷の入り口で、僕は、足を止めた。

黒い霜の壁が、谷をふさいでいた。

高さは、僕の背の、三倍はある。ぱきぱきと、音を立てながら、少しずつ、広がっている。

その向こうから、かすかに、声が、聞こえた。

「……かあさん……」

胸が、ぎゅっと、締めつけられた。

僕は、壁に、そっと、手をかざした。

(……雑草鑑定)

【名称:凍りついた悲しみの壁】

【状態:触れた者の心を、凍らせる】

【突破方法:「温かい記憶」を持つ者のみ、通り抜けられる】

「温かい、記憶……」

僕は、胸元の、青い石と、マフラーと、ギンの髭を、ぎゅっと握りしめた。

母さんの、かぼちゃパン。リナの、小さな手。ミレイの、照れた顔。ハンナさんの、大きな掌。

たくさんの、あたたかい記憶が、胸の中に、あふれてくる。

「行こう」

僕は、黒い霜の壁に、一歩、踏み出した。

壁が、ふわりと、波打った。

そして、僕の体を、静かに、すり抜けさせた。

谷の奥に、広がっていたのは、白い、静かな世界だった。

その中心に、巨大な白い狼が、横たわっている。

そして、その傍らで、小さな黒い外套の男の子が、うずくまって、泣いていた。

僕は、ゆっくりと、近づいた。

男の子が、はっと、顔を上げる。

涙でぐしゃぐしゃの顔。真っ赤な目。

その瞳の奥に、僕は、見覚えのある光を、見つけた。

深夜のオフィスで、ひとり、倒れていった、あの夜の僕と、同じ光だった。

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――第36話へ続く――

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