第34話 氷の少女と、三日間だけの約束
薬屋の奥の部屋に、ぱちぱちと、薪の爆ぜる音が響いていた。
寝台の上で、白い髪の少女が、毛布にくるまって眠っている。頬に、少しずつ、血の気が戻ってきていた。
「体温は、戻ってきたよ。凍傷も、月光草の湿布で、だいぶ引いた」
ハンナさんが、少女の手首を取って、脈を確かめながら言った。
「あとは、目を覚ますのを、待つだけだね」
「ばあちゃん、ありがとうございます」
「礼は、あとでいい。それより、ケン」
ハンナさんは、部屋の隅の小さな氷の箱に、目をやった。
「あの箱の中身、見たかい?」
「いえ、まだ」
「開けないほうがいいよ。いま開けたら、溶けてしまう。……でも、箱の外から見ても、わかるくらい、弱っているね」
氷の箱の中で、青白い小さな草が、ほとんど枯れかけて、うなだれていた。
ミレイが、僕の隣に来て、小声で言った。
「ケン、明日、私、学院に戻らなきゃいけないのよ」
「うん」
「でも、この子を、放っておけないわよね」
「…………」
僕が答えられずにいると、ミレイは、ふん、と鼻を鳴らした。
「別に、私は、あんたを止めに来たんじゃないわよ。ただ、言っておきたかっただけ」
* * *
夜になって、少女は、ようやく目を覚ました。
「……ここは」
「薬屋だよ。ミドリ村の」
僕は、湯気の立つ杯を、そっと差し出した。
「月光草のお茶。体が温まるよ」
少女は、じっと杯を見つめてから、ゆっくりと、受け取って、ひとくち飲んだ。
「…………あたたかい」
ぽつりとこぼれた声は、小さくて、すきとおっていた。
「僕は、ケン。君は、ユキ、でいいのかな」
「……はい。ユキと、申します」
ユキは、寝台の上で、きちんと姿勢を正して、頭を下げた。
「北の雪の民の、巫女見習いです。この度は、助けていただき、ありがとうございました」
「そんなに、かしこまらなくていいよ」
「いえ。……お願いが、あって、参りました」
ユキの青い瞳が、まっすぐ、僕を見た。
「氷涙草を、救っていただきたいのです」
部屋の空気が、ぴんと張りつめた。
ハンナさんも、ミレイも、いつのまにか、寝台の周りに、集まっていた。
「詳しく、聞かせてもらえるかい」
ハンナさんが、静かに言った。
ユキは、うなずいて、ぽつり、ぽつりと、話し始めた。
「北の氷山には、『氷涙草の谷』があります。百年に一度、谷の中心で、氷涙草が、ひとつだけ花を咲かせます。それを、守り手さまが、見守ってこられました」
「守り手……」
「大きな、白い狼の姿をした、古い精霊です。私たち、雪の民は、守り手さまに、お仕えしてきました」
ユキは、膝の上で、手を握りしめた。
「ところが、今年の春から、谷の氷が、解け始めたのです」
「氷が、解ける?」
「はい。年中、凍っているはずの谷の底が、じわじわと、水になって。氷涙草は、冷たい氷の中でしか、育ちません。このままでは、枯れてしまいます」
「原因は、わかっているの?」
「……わかりません。ただ」
ユキは、唇をかんだ。
「三日前、守り手さまが、倒れたのです。体の中から、黒い霜が、広がって」
「黒い、霜……?」
僕は、はっと顔を上げた。
「ユキ、もしかして、その霜、黒い花のような形をしてなかった?」
「……いえ。花ではありません。ただ、黒くて、霜のように、細かく、毛並みに、広がっていて」
「そうか……」
少し、ほっとして、でも、同時に、胸がざわついた。
黒月花とは、違う。でも、どこか、似ている。
(もしかして、あれは、「何か別のもの」なんじゃないか)
ユキは、続けた。
「守り手さまは、倒れる前、私に、おっしゃいました。『谷の外に、月の光を扱う者がいる。その者を、探せ』と」
「月の光……」
「氷涙草の、最後の一株を、箱に入れて、私に託されました。『その者のもとへ行け。そうすれば、道が開ける』と」
「それで、君は、三日三晩、歩いて……」
ユキは、こくりと、うなずいた。
「無礼を、承知で、お願いします」
少女は、寝台の上で、深く、深く、頭を下げた。
「どうか、北へ、来てください。守り手さまを、氷涙草を、お救いください」
* * *
沈黙のなか、僕は、手元の杯を、じっと見つめていた。
学院。明日、ミレイが戻る。
そこに、僕も、行くはずだった。
けれど、いま、目の前には、涙をこらえている、同い年の少女がいて、倒れた守り手がいて、枯れかけた草がある。
「ケン」
ミレイが、静かに、僕の名前を呼んだ。
「あんた、もう、決めてるでしょ」
「……うん」
僕は、顔を上げて、ユキを見た。
「ユキ。行くよ、北へ」
「……!」
「でも、すぐじゃない。三日だけ、待ってほしい」
「三日……ですか」
「準備が、いるんだ。長い旅になるし、寒い場所だから、薬も、道具も、防寒着も。それに」
僕は、ハンナさんを見た。
「村のみんなにも、ちゃんと、説明したい。母さんに、お別れじゃなくて、『いってきます』を、言いたいんだ」
ハンナさんは、ふっと、笑った。
「……いい心がけだよ」
ユキの瞳が、じわりと、潤んだ。
「ありがとう、ございます……! 三日、お待ちします」
「それから、もうひとつ」
僕は、ミレイに、向き直った。
「ミレイ。学院には、先に、行って」
「…………」
「僕は、北に行ってから、必ず、学院に行く。約束する。だから、ミレイは、先に行って、待ってて」
ミレイの唇が、きゅっと、結ばれた。
何か、言いたそうに、目が揺れて、それから、ふいっと、横を向いた。
「……勝手に、決めないでよ」
「ごめん」
「謝るくらいなら、最初から、そんな顔、しないで」
ミレイは、拳を握って、ぷるぷると、肩を震わせた。
「私だって、一緒に、行きたいわよ! でも、学院は、休めないの! 特待生の、条件だから!」
「うん」
「だから……!」
ミレイは、くるりと、僕のほうを向いた。目が、真っ赤だった。
「手紙、書きなさいよ! 三日に一度じゃない、毎日よ!」
「えっ、毎日?」
「当たり前でしょ! あんた、すぐ、無茶するんだから!」
「わ、わかった。毎日、書く」
「約束よ!」
「うん、約束」
ミレイは、ふん、と鼻を鳴らして、自分の鞄から、一冊の、小さなノートを取り出した。
「これ、持っていきなさい」
「何、これ?」
「薬草の、覚え書きよ。私が、学院で、三年かけてまとめたの。……あんたの『鑑定』と、私の『知識』を、合わせたら、無敵でしょ」
表紙には、ミレイの、丸くて、きれいな字で、こう書かれていた。
『ケンの、旅の薬草ノート』
「ミレイ……」
「べ、別に、プレゼントじゃないわよ! 貸すだけ! ちゃんと、返しに来なさいよ!」
「うん。絶対に、返しに行く」
ミレイは、こくこくと、何度も、うなずいた。
その頬を、つうっと、涙が、一粒、伝っていった。
* * *
その夜、僕は、家に帰って、母さんに、話した。
「……そう。北へ、行くの」
母さんは、洗い物をしながら、背中を向けたまま、静かに、答えた。
「うん。ごめん、せっかく、帰ってきたばかりなのに」
「謝らないの」
母さんは、手を止めて、ゆっくりと、振り向いた。
目が、少し、赤かった。
「ケンが、誰かを助けに行くのを、止める母親は、いないわ」
「母さん……」
「その代わり」
母さんは、僕の頬を、両手で、そっと包んだ。
「いってらっしゃいは、帰ってくる人にだけ、言える言葉なの。……だから、ちゃんと、『ただいま』を、言いに来なさい」
「うん。必ず」
母さんは、にっこり笑って、僕を、ぎゅっと、抱きしめた。
居間の隅では、リナが、半べそをかきながら、毛糸で、何かを編んでいた。
「お兄ちゃん、これ、さむいとこ、いくんでしょ? あったかいの、あんでるの」
「リナ……」
「まにあわないかもだけど、がんばる!」
僕は、思わず、笑って、リナの頭を撫でた。
窓の外には、二つの青い月。
その片方が、うっすらと、雪雲に、かすんでいた。
僕は、ふと、薬屋で見た、氷の箱を、思い出した。
あの中で、ほとんど枯れかけていた、青白い草。
そのとき。
僕の鞄の中で、何かが、ほのかに、光った。
取り出すと、ギンからもらった、銀色の髭が、淡く、輝いていた。
『……ケン』
頭の中に、ギンの声が、響く。
『ユキの、はこ。ひかってる。さっき、うごいたよ』
「えっ?」
僕は、慌てて、薬屋へ、駆け戻った。
氷の箱の中で、枯れかけた氷涙草が、ほんの少しだけ、顔を上げていた。
葉の先に、小さな氷の粒が、きらめいている。
そして、その粒の中に、うっすらと、文字が、浮かび上がっていた。
『月光の薬師よ。三日では、遅い。
我が牙が、折れる前に、来い。
――白き守り手』
僕は、息をのんだ。
守り手は、意識を失ってなど、いなかった。
箱の中の草を通して、僕を、呼んでいる。
三日の猶予が、実は、そんなに、残されていないのかもしれない。
僕は、拳を、ぎゅっと握りしめた。
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――第35話へ続く――




