第33話 夏の終わりのお茶と、橋のたもとの雪の少女
学院に行くと決めてから、二日が過ぎた。
出発まで、あと一日。薬屋の台所では、朝から、ミレイが鍋の前に仁王立ちしていた。
「ケン、夏風茶の最後の仕込みよ。学院に持っていく分と、村のみんなに配る分」
「持っていく分も、作るの?」
「当たり前でしょ。学院の寮の水は、まずいって有名なのよ」
ミレイは、真剣な顔で、夏空の花を水に浸していく。その手つきは、前よりずっと、慣れていた。
「ミレイ」
「何よ」
「ありがとう。学院のこと、誘ってくれて」
「……だから、あんたのためじゃないって、言ってるでしょ」
そう言いながら、ミレイの耳は、真っ赤だった。
そこへ、ハンナさんが、奥の部屋から、古びた革の鞄を抱えて出てきた。
「ケン。ちょっと、おいで」
「はい、ばあちゃん」
ハンナさんは、鞄を、僕の前に、そっと置いた。
「私が、若い頃に使っていた、薬師の鞄だよ。すり鉢、乳棒、小さな秤、それから、薬草を包む布。全部、中に入っている」
「えっ、そんな大事なもの」
「大事だから、あげるのさ」
ハンナさんは、鞄の留め具を、ぽんと叩いた。
「道具は、使われてこそ、道具だ。私は、もう、店の道具だけで、十分だからね」
ふと、鞄の内側に、小さな刺繍があるのに気づいた。
『H & E』
「ばあちゃん、これ……」
「ああ、エレナと、お揃いでね。あの子が、縫ってくれたんだよ。喧嘩する前の、まだ仲がよかった頃にさ」
ハンナさんは、少しだけ、目を細めた。
「……持っていってくれるかい。あの子の分も」
「はい。大切にします」
胸の奥が、きゅっと、熱くなった。
台所の隅で、ヴォルフさんが、背中を向けたまま、そっと目頭を押さえていた。
* * *
午後、森の入り口まで、銀牙さんとギンに、会いに行った。
「学院に、行くのか」
銀牙さんは、静かに言った。
「はい。少し、離れることになります」
「そうか。……森は、我らが守る。心配は、いらぬ」
『ケン、いっちゃうの?』
ギンが、僕の足もとで、ぺたんと座り込んだ。尻尾が、しょんぼりと、垂れている。
「ごめんね、ギン。でも、夏と冬には、ちゃんと帰ってくるよ」
『ぼく、ついていきたい』
「学院は、町の中だから。ギンは、ここにいたほうが、安全だよ」
『……ぼく、おるすばん、できるよ』
「うん。ギンは、とっても、えらいよ」
僕は、ギンの頭を、そっと撫でた。
そのとき、ギンが、ぴょんと跳ねて、僕の外套のポケットに、何かを入れた。
「これ、何?」
『ぼくの、ひげ! おまもり!』
取り出すと、細くて、銀色に光る、一本の髭だった。
「……ありがとう。大事にする」
『さびしくなったら、にぎって! ぼく、すぐ、わかるから!』
「うん」
銀牙さんが、小さく咳払いをして、ぶっきらぼうに言った。
「……ケン殿。何かあれば、我が弟を通じて、呼べ。すぐに、駆けつける」
「ありがとうございます、銀牙さん」
「礼は、いらぬ」
そう言って、顔をそむけたけれど、銀牙さんの耳は、嬉しそうに、ぴくぴくと動いていた。
* * *
夕方。
村の南の橋が、ほとんど完成していた。
石を積んだ、がっしりとした、美しい橋だ。夕日を浴びて、赤く染まった川面に、まっすぐな影を落としている。
「立派になったねえ」
ゴードンじいさんが、橋の欄干を、ぽんぽんと叩いた。
「これで、雨の日も、お医者さんが来られる。ケン坊のおかげだ」
「僕じゃなくて、陛下と、職人さんたちのおかげです」
「いや、おまえさんの『お願い』が、なきゃ、こうは、ならなかった」
じいさんは、にやりと笑った。
「橋の名前は、もう、決まってるぞ」
「えっ、何ですか?」
「『ケン坊橋』だ!」
「やめてください!」
僕が真っ赤になると、周りのおじいさんたちが、大声で笑った。
そのときだった。
ひゅう、と、冷たい風が、橋のうえを、吹き抜けた。
「……寒っ」
ミレイが、腕をさすった。
夏の夕暮れのはずなのに、息が、白く曇った。
「ケン、今の……」
「北の風だ」
銀牙さんの声が、後ろから、聞こえた。振り返ると、いつのまにか、銀牙さんとギンが、橋の入り口に立っていた。
「ついさっき、森の木々が、ざわめいた。何かが、来る」
『ケン、ケン、こおりの、においがする!』
ギンが、僕の足に、ぎゅっとしがみつく。
橋の向こう、川の対岸に、ひとつの人影が、見えた。
白い外套。長い、真っ白な髪。
その人影は、ふらり、ふらり、と、橋に向かって、歩いてくる。
「あれ、人?」
「でも、様子が、おかしいわ」
次の瞬間。
人影は、橋の真ん中で、ぱたりと、倒れた。
「大変!」
僕は、駆け出した。
橋の中ほどに、うつぶせに倒れていたのは、僕と同じくらいの歳の、女の子だった。
白い外套には、びっしりと、霜がついている。髪は、雪のような、銀白色。唇は、真っ青で、まつげにまで、小さな氷の粒が、凍りついていた。
「しっかりして!」
触れると、体が、氷のように、冷たかった。
僕は、すぐに、心の中で唱えた。
(……雑草鑑定。状態鑑定)
【名称:ユキ】
【状態:重度の凍傷と、魔力枯渇。三日三晩、歩き続けた模様】
【備考:北の雪の民。氷涙草の守り手に仕える巫女見習い】
【所持品:小さな氷の箱に、「氷涙草の最後の一株」】
「……氷涙草!」
思わず、声が出た。
ミレイが、息をのむ。
「ケン、早く、温めないと!」
「うん! ゴードンさん、毛布を! 銀牙さん、運ぶのを手伝ってください!」
「おう、任せろ!」
僕は、鞄から、月光草の葉を取り出して、女の子の唇に、お茶を、少しずつ、含ませた。
けれど、女の子は、うっすらとまぶたを開けると、僕の手を、弱々しく、握った。
青い、氷のように澄んだ瞳が、僕を、じっと見つめる。
「……あなたが……月光の、薬師……?」
「うん、そうだよ。喋らなくていい。いま、助けるから」
「お願い……」
女の子の唇が、かすかに、動いた。
「氷涙草が……枯れかけて、います……」
「…………」
「守り手さまが……倒れ、ました……」
その言葉を最後に、ユキと名乗った少女は、僕の腕のなかで、すうっと、意識を失った。
橋の上に、白い雪が、一片、二片、ひらひらと、舞い始めた。
夏の終わりの夕空から、静かに、降ってくる。
(北の守り手が、倒れた……)
僕は、少女の小さな手を、そっと握りしめた。
のんびり暮らしたい。その願いは、変わらない。
けれど、目の前で、誰かが助けを求めているなら、お茶を淹れずには、いられない。
僕は、ミレイと目を合わせて、うなずいた。
「ばあちゃんの、薬屋に、運ぼう」
「うん!」
夕焼けの橋に、ひとひらの雪が、やさしく、積もっていった。
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――第34話へ続く――




