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第32話 母さんの「いってらっしゃい」と、庭に植える月見草

「学院に、行きたいの?」

夕食のあと、母さんは、洗い物の手を止めて、ゆっくりと僕に聞いた。

「まだ、決めてないんだ。でも、行ってみたい気持ちは、ある」

「そう」

母さんは、布で手をふいて、僕の向かいに座った。リナは、もう寝ている。

「ケンは、もう、十二歳なのに、お母さんより、ずっと大人みたいね」

「そんなことないよ」

「あるわ。王様を救って、宰相さまを許して、それでも『のんびり暮らしたい』って、笑ってるんだもの」

母さんは、少し寂しそうに、笑った。

「本当はね、行かせたくないの」

「母さん……」

「町は、遠いでしょう? ごはんは、ちゃんと食べるかしら。夜は、眠れるかしら。……そんなことばかり、考えてしまうの」

僕は、何も言えなかった。

「でもね」

母さんは、僕の手を、そっと、包んだ。

「ケンが、前に進みたいなら、お母さんは、背中を押す。それが、母親の仕事だから」

「……ありがとう」

「ただし、約束がひとつ」

「うん」

「三日に一度は、手紙を書くこと。それから、夏と冬には、必ず、帰ってくること」

「うん。約束する」

「よろしい」

母さんは、ふっと目を細めて、僕の頭を、くしゃりと撫でた。

「いってらっしゃいは、まだ早いわね。……でも、いつでも言える準備だけは、しておくわ」

その手が、少しだけ、震えていた。

* * *

翌朝、薬屋の裏庭に、人が集まっていた。

ハンナさん、ヴォルフさん、ミレイ。そして、村のはずれに、ひっそりと現れた、ひとつの馬車。

馬車から降りてきたのは、旅装束の、背の高い男の人だった。銀灰色の髪。以前より、少しやせて、穏やかな顔つき。紫の外套は着ていない。ただの、地味な灰色の上着だ。

「……ガルヴィン」

ヴォルフさんが、静かに、名前を呼んだ。

「ヴォルフ。陛下のご命令で、参った」

元宰相さまは、深く、頭を下げた。

「この村の郊外に、庭を作らせてもらう。……よろしいだろうか」

しばらくの沈黙のあと、ハンナさんが、腕を組んで言った。

「畑は、村の人たちの許しがないと、作れないよ。まずは、ご挨拶からだね」

「……承知している」

元宰相さまは、背筋を伸ばした。

その日の午後、広場に、村じゅうの人が、集められた。

ゴードンじいさんも、おじいさん連合も、母さんも、リナも。みんな、緊張した顔で、元宰相さまを、見つめている。

元宰相さまは、広場の真ん中に立って、ゆっくりと、口を開いた。

「私は、ガルヴィン・ノーラン。かつて、この国の宰相だった者です」

ざわり、と、空気が揺れた。

「私は、この村に、毒を盛ろうとしました。井戸に、毒を入れ、皆さんの暮らしを、脅かしました。そのことを、深くお詫びします」

そう言って、元宰相さまは、地面に膝をつき、額を、土につけた。

誰も、何も言わなかった。

風が、広場を吹き抜ける。提灯の残骸が、かさりと、揺れた。

やがて、ゴードンじいさんが、杖をつきながら、ゆっくりと、前に出た。

「……顔を、上げなされ」

「…………」

「あんたが、何をしたかは、ケン坊から、聞いた。許せねえ、って気持ちも、正直、ある」

じいさんの声は、低かった。

「だがな。あんたは、陛下に裁かれて、それでも、ここに来た。こんな田舎まで、頭を下げに来た。それは、並の人間にできることじゃねえ」

「……ゴードン殿」

「だから、こうしよう」

じいさんは、ごつい手を、元宰相さまに、差し出した。

「村の者は、あんたを、許さねえ。でも、追い出しもしねえ。月見草の庭を、ちゃんと育てて、毎日、水をやって、村のためにも、働け。それができたら、そのとき、もう一度、考えてやる」

元宰相さまの目が、潤んだ。

「……ありがとう、ございます」

「礼は、まだ早い!」

ゴードンじいさんは、にやりと笑った。

「まず、あの草刈り鎌の、使い方を覚えな。宰相さまが、鎌も握れねえんじゃ、庭は、荒れ放題になるぞ!」

広場に、小さな笑いが、広がった。

ミレイが、僕の隣で、ほっと息をついた。

「……よかった」

「うん」

僕は、うなずいた。

許す、というのは、すぐにできることじゃない。でも、「これから」を、少しずつ、一緒に作っていくことは、できる。

* * *

その日の夕方、僕は、元宰相さまと一緒に、村のはずれの空き地に、立っていた。

小さな丘の、日当たりのいい場所。見晴らしがよくて、遠くに、魔の森が見える。

「ここが、庭に、なるんですね」

「ああ。……陛下から、エレナの庭にあった月見草の種を、預かってきた」

元宰相さまは、小さな布袋を、そっと開いた。

中には、黒くて、小さな、たくさんの種が入っていた。

「ケン殿」

「はい」

「ひとつ、頼みがある。……この種を、一緒に、植えてもらえないだろうか」

「僕が、ですか?」

「君の手で、水をやってもらいたい。この花を、もう一度、本当の姿で、咲かせるために」

僕は、少し、考えてから、うなずいた。

「はい。喜んで」

ふたりで、土に、小さな穴を掘った。

ひとつ、ふたつ。種を置いて、そっと土をかぶせる。

僕は、水筒の、夏風茶を、少しだけ、土に注いだ。

「お茶、ですか?」

「はい。お水と、ほんの少しだけ。エレナさんも、夏には、冷たいお茶が好きだったって、ヴォルフさんが」

元宰相さまの手が、ぴたりと止まった。

「……ああ、そうだった」

声が、かすれていた。

「あの子は、よく、そう言っていた。『ガルヴィンも、飲んでみて。おいしいから』と。……私は、一度も、飲まなかった」

「今、飲みますか?」

僕は、水筒を差し出した。

元宰相さまは、ゆっくりと、受け取って、ひとくち、飲んだ。

「……甘い」

ぽつり、と、つぶやいた。

「甘くて、冷たくて、花の香りがする。……こんなに、おいしかったのか」

夕風が、そよいだ。

その風に乗って、ふわりと、何かが舞い降りてきた。

白い、小さな、結晶。

「……雪?」

僕は、手のひらを、広げた。

夏の終わりの空から、雪が、一片だけ、ひらりと落ちてきて、手のなかで、溶けた。

元宰相さまの顔色が、さっと変わった。

「ケン殿。……北の空を、見てくれ」

見上げると、遠くの北の空だけ、うっすらと、青白く、霞んでいた。

「あれは……氷涙草の、気配だ。星蝕病に苦しんでいたとき、地図を調べていて、知った。氷涙草の守り手は、百年に一度、目を覚ますと」

「守り手……」

「それが、今、目覚めようとしている」

元宰相さまが、低くつぶやいた。

「北の空に、雪の気配が出るのは、守り手が動き出す、合図だ」

夕焼けの空に、ほんの少しだけ、冷たい風が、吹き抜けた。

僕の胸の中で、地図の、四つの草の名前が、ゆっくりと、浮かんでは、消えた。

のんびり暮らしたい。その気持ちは、少しも、変わらない。

けれど、世界は、僕が思うより、ずっと、広くて、不思議に満ちている。

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――第33話へ続く――

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