第31話 帰ってきた朝は、かぼちゃパンの匂い
目が覚めると、天井の木の梁が見えた。
藁のにおい。窓から差し込む、やわらかな朝の光。
(……ああ、帰ってきたんだ)
体を起こすと、旅の疲れが、体の奥にずっしりと残っていた。
「お兄ちゃん、おきたー!」
ばたん、と扉が開いて、リナが飛び込んできた。
「お母さんが、ごはんだって! かぼちゃパン、まだあったかいよ!」
「うん、今行く」
台所では、母さんが、鍋をかき混ぜていた。
「おはよう、ケン。よく眠れた?」
「うん。久しぶりに、夢も見なかった」
「それは、よかったわ」
食卓には、焼きたてのかぼちゃパン、野菜のスープ、ゆで卵。王宮で食べた豪華な食事より、ずっとおいしかった。
「……やっぱり、母さんのが一番だ」
「あら、王宮のごはんより?」
「うん。ずっと」
母さんは、少し照れて、くすっと笑った。
「ほら、もっと食べなさい。痩せたんじゃない?」
「痩せてないよ」
「痩せたわ。母親の目は、ごまかせません」
リナが、かぼちゃパンを両手で持って、ほっぺをふくらませながら言う。
「お兄ちゃん、おうさまに、あった?」
「うん、会ったよ」
「おうさま、やさしかった?」
「すごく、やさしかった。お茶も、飲んでくれた」
「えー! いいなあ! わたしも、あいたい!」
「いつか、行けるかもね」
「ほんと? やくそくよ!」
リナの小指に、僕の小指を絡める。この数日で、いったい何回、小指を絡めただろう。
* * *
薬屋に行くと、すでに、にぎやかだった。
「ヴォルフ! そこの瓶は、右の棚だって言ってるだろう!」
「す、すみません、義姉さん」
「義姉さんじゃなくて、師匠とお呼び!」
「は、はい、師匠!」
店の中で、白い髭の老人が、おろおろと瓶を抱えて、右往左往している。かつて王宮の薬師院で院長を務めた人とは、思えない姿だった。
「ヴォルフさん、おはようございます」
「おお、ケン殿。おはよう。……どうも、私は、薬屋の仕事に慣れなくてな」
「えっ、薬の知識は、誰よりも」
「知識と、店の棚の位置は、別の話だ」
真顔で言うヴォルフさんに、思わず、吹き出した。
奥から、ミレイが、籠を抱えて出てきた。
「おじいさん、そこじゃなくて、こっち! 何回言わせるの?」
「ミレイ嬢、すまない」
「だから、嬢じゃなくて! ミレイでいいって、言ってるでしょ!」
ミレイは、腕組みをして、ヴォルフさんを睨んだ。でも、その口もとは、ほんの少し、笑っている。
「……大叔父さんなんだから」
「……!」
ヴォルフさんの目が、まるくなった。
「大叔父さん、と、呼んでくれるのか」
「べ、別に、他に呼び方がないだけよ!」
ミレイは、真っ赤になって、そっぽを向いた。ハンナさんが、奥から、にやにや笑っている。
「素直じゃないねえ、うちの孫は」
「おばあちゃん!」
僕は、そのやり取りを、そっと見守りながら、胸の奥が、あたたかくなった。
(にぎやかだな)
これが、僕が守りたかった日常だ。
* * *
午後、村の南の川のほうから、トンカン、と大きな音が聞こえてきた。
「あれ、何の音ですか?」
「橋の工事さ」
ゴードンじいさんが、腰に手を当てて、誇らしげに言った。
「陛下が、約束どおり、王都から職人を送ってくださったんだ。ケン坊のおかげで、この村にも、立派な石橋がかかるぞ」
川辺に行くと、大勢の職人たちが、石を運んだり、木組みを作ったりしていた。村の子どもたちが、わくわくしながら、それを眺めている。
「あ、ケンにいちゃんだ!」
「『げっこうのくすし』だ!」
「えっ、その呼び方、どこで」
「ダリオさまが、いってた!」
……ダリオさんだ。
「違うよ。僕は、ただの薬屋の弟子だよ」
「でも、おうさまが、そういったんでしょ?」
「そうだけど……」
子どもたちは、きゃっきゃと笑って、僕のまわりを、ぐるぐる走り回った。
職人の親方が、日に焼けた顔で、近づいてきた。
「あんたが、ケン殿かい。陛下から、直々に頼まれてね。『この橋は、一番丈夫で、一番きれいに作れ』と」
「あ、ありがとうございます」
「いい村だな、ここは。職人たちも、みんな、気に入ってるよ」
「えっ?」
「昼飯に、村のおばさんたちが、握り飯を持ってきてくれるんだ。それが、うまくてな」
僕は、思わず、笑った。
(やっぱり、この村は、あったかい)
* * *
夕方、薬屋の前で、ミレイが、僕を待っていた。
「ケン」
「ミレイ、どうしたの?」
「ちょっと、話があるの。座って」
縁側に、並んで腰かける。夕焼けが、空を、橙色に染めていた。
「……あのね」
ミレイは、膝を抱えて、ぽつりと言った。
「夏の休み、もうすぐ終わるの」
「えっ」
「あと三日で、学院に戻らなきゃ。ごめんね、ずっと、言いそびれてて」
胸の奥が、きゅっと、冷たくなった。
そうだ。ミレイは、町の学院の生徒で、夏休みだけ、帰ってきていたんだ。
「そう、なんだ」
「うん」
「寂しくなるな」
「……あんたも、そう思う?」
ミレイが、横目で、僕を見た。耳が、赤い。
「うん。寂しい」
「そ、そう。なら、いいのよ」
ミレイは、ぷいっと、前を向いた。
しばらく、夕焼けを眺めていた。
やがて、ミレイが、小さな声で、言った。
「あのさ」
「うん」
「あんたも、学院に、来なさいよ」
「…………え?」
「陛下が、学費を出してくれるって、言ったでしょ。それなら、あんたの分も、頼めるんじゃない?」
ミレイは、僕を見ないまま、早口で続けた。
「あんたのスキルが、すごいのは、わかってる。でも、基礎の知識が、足りてないのも、事実でしょ? 学院で、きちんと習ったほうが」
「ミレイ」
「何よ!」
「ありがとう」
ミレイは、ぴたりと、口を閉じた。
「僕のこと、考えてくれて」
「べ、別に、あんたのためじゃないわよ! 私が、もっと勉強したいだけで」
「うん、わかってる」
僕が笑うと、ミレイは、顔を真っ赤にして、膝に顔をうずめた。
「……ばか」
夕焼けの空に、二つの青い月が、うっすらと、浮かび始めていた。
学院。町の、大きな学校。そこでは、いったい、どんなことが待っているのだろう。
(のんびり、できるかな)
そう思いながらも、僕の胸は、少しだけ、わくわくしていた。
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――第32話へ続く――




