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第29話 三つの杯と、遅れてきた「ごめんなさい」

大広間が、静まり返っていた。

陛下は、僕から受け取った杯を、両手で、そっと包んでいる。金色の髪は乱れ、頬は痩せ細っている。それでも、青い瞳は、まっすぐで、強かった。

「諸君」

かすれた声が、広間に響く。

「驚かせて、すまない。私は、三日前、目を覚ました。そして、それから、ずっと、眠ったふりをしていた」

貴族たちが、ざわめく。

「なぜなら、目を覚ました私の枕元で、ひとつの言葉を、聞いたからだ」

陛下は、ゆっくりと、宰相さまを見た。

「『あと三日で、すべてが終わる』。……そう、囁いたのは、君だったな、ガルヴィン」

宰相さまの唇が、小さく震えた。

「へ、陛下、それは、お聞き違い」

「友の声を、聞き違えるものか」

陛下は、静かに、首を振った。

「私は、君を、信じたかった。三十年、共に国を支えてきた、友だと思っていた。だから、真実を、確かめるために、眠ったふりをした。……そうして、見てしまった。君が、ひとり、寝所で、黒い花びらを、数えているのを」

宰相さまの顔から、笑みが、すうっと、消えた。

「……そう、ですか」

声が、ひどく、低かった。

「見られて、いたのですね」

「ああ」

陛下は、僕に、目を向けた。

「少年。茶を、ありがとう」

そして、杯を、ゆっくりと、口に運んだ。

こくり。

こくり。

飲み干した瞬間、陛下の頬に、ふわりと、赤みが戻った。浅かった息が、深くなる。

「……温かい」

陛下は、ふう、と息をついて、微笑んだ。

「久しぶりだ。体の中に、光が、灯るのは」

* * *

「……は、はは」

乾いた笑いが、広間に、こぼれた。

宰相さまだった。

「はははは……なるほど。そういう、ことですか」

宰相さまは、ふらりと、一歩、後ろへ下がった。

「近衛兵! 何をしている! 陛下は、錯乱しておられる! その少年を、ただちに、取り押さえろ!」

けれど、槍を構えた近衛兵たちは、動かなかった。

互いに、顔を見合わせている。誰も、一歩も、踏み出さない。

「……近衛隊長」

陛下が、静かに、呼んだ。

僕を連れてきた、あの隊長が、一歩、進み出た。そして、槍を、からん、と、床に置いた。

「陛下。お目覚め、まことに、喜ばしく存じます」

「ああ。長いあいだ、苦労をかけたな」

「いえ。……我々は、宰相閣下の命に、疑念を抱いておりました。しかし、確証がなく、動けずにいたのです」

「許す。そして、いま、命じる」

陛下の声が、凛と、響いた。

「ロルフ伯、セドリック、ダリオを、解放せよ」

「はっ!」

近衛兵たちが、伯爵さまたちの鎖を、外していく。

宰相さまは、その光景を、呆然と、見つめていた。

そして。

ぐらり、と、体が、傾いた。

「が……あ……っ」

宰相さまが、胸を押さえて、膝をついた。

袖口から、黒い血管のような筋が、ぞわぞわと、首筋まで、這い上がっていく。皮膚の下で、何かが、うごめいている。

「閣下!?」

「宰相さま!」

貴族たちが、悲鳴をあげて、後ずさった。

僕は、急いで、鑑定した。

(……雑草鑑定。状態鑑定!)

【名称:ガルヴィン・ノーラン】

【状態:重度の魔力毒。星蝕病と、黒月花の毒が、暴走している】

【警告:体内の魔力が、制御を失いつつある。数分以内に、広間全体に、毒が溢れ出す危険】

「……! みなさん、下がって!」

僕は、叫んだ。

「宰相さまの体から、毒が、溢れます! 窓から、離れて!」

「毒だと!?」

「やはり、あの少年が」

混乱する貴族たちの声を、さえぎるように。

ばりん、と、窓ガラスが、割れた。

そして、白い影が、広間に、飛び込んできた。

「ケン!」

ミレイだった。後ろから、ヴォルフさんと、銀牙さんが、続いている。

「ごめん、遅くなった! 搬入口の扉が、重くって!」

「ミレイ! ありがとう、ちょうどいい!」

僕は、鞄から、水筒を、取り出した。

「ヴォルフさん、お願いします。宰相さまに、お茶を」

ヴォルフさんが、ゆっくりと、頷いた。

そして、壇の上に、足を踏み出した。

* * *

宰相さまは、床に、膝をついたまま、荒い息をしていた。

その前に、ヴォルフさんが、立った。

「……ヴォルフ」

宰相さまが、顔を上げて、にやりと笑った。

「見ろ。これが、私の、末路だ。笑うがいい。君の妻を、死なせた男の、無様な姿を」

「…………」

「殺せ。いま、ここで。君には、その権利がある」

ヴォルフさんは、しばらく、何も言わなかった。

やがて、膝を折って、宰相さまの前に、屈み込んだ。

そして、小さな杯に、三草の茶を、静かに注いだ。

「飲め、ガルヴィン」

「…………何?」

「飲めと言っている」

宰相さまの目が、見開かれた。

「ふざけるな。私は、君の妻を」

「わかっている」

ヴォルフさんの声は、静かだった。

「私は、おまえを、許せない。おそらく、一生。……だが」

ヴォルフさんの手が、かすかに、震えた。

「エレナは、おまえに、一度も、『死ね』と、言わなかったはずだ」

「……っ」

「あの子は、最期に、私に言った。『ヴォルフには、言わないで』と。おまえが、手を下したことを、あの子は、知っていた。それでも、誰にも、告げずに逝った」

宰相さまの顔が、くしゃり、と、歪んだ。

「どうして……」

「おまえを、守ろうとしたんだ。友として」

広間の、誰もが、息をのんでいた。

「生きて、償え」

ヴォルフさんは、杯を、宰相さまの口もとに、差し出した。

「死んで、楽になるな。エレナに謝りたいなら、生きて、この国の前で、すべてを話せ。そして、残りの命を、あの子の愛した草花を、育てることに、使え」

「ヴォルフ……私は……」

宰相さまの目から、ぽろりと、涙が落ちた。

「私は、あの子に、謝りたかった。ずっと、ずっと。けれど、もう、引き返せなくて」

「遅いよ、馬鹿者」

ヴォルフさんは、少し、笑った。

「でも、生きているうちは、遅くない。……私も、義姉さんに、そう言われた」

震える手が、杯を、受け取った。

宰相さまは、ゆっくりと、茶を、口に含んだ。

こくり。

その瞬間。

宰相さまの体から、ぱあっと、白い光が、溢れた。

袖口の黒い筋が、すうっと、薄れていく。皮膚の下でうごめいていたものが、ほどけるように、消えていく。

「……あ……」

宰相さまは、自分の手を、呆然と、見つめた。

「温かい……エレナの庭の、においがする……」

そして、その場に、崩れ落ちるように、うずくまった。

肩が、小さく、震えている。

声を殺して、泣いているのが、わかった。

ヴォルフさんが、その背中に、そっと、手を置いた。

「……おかえり、ガルヴィン」

誰も、何も、言えなかった。

シャンデリアの光が、涙で、きらきらと、滲んで見えた。

* * *

しばらくして、僕は、もう一度、宰相さまを、鑑定した。

【名称:ガルヴィン・ノーラン】

【状態:黒月花の毒は、除去された】

【備考:星蝕病は、進行が止まっているが、完治していない。完治には、残る四つの草が必要】

(……そうか)

三つの草で治せるのは、毒だけ。生まれつきの病までは、治せない。

宰相さまが、あれほど、七つの草を、求めていた理由が、ようやく、わかった。

「ガルヴィン」

陛下が、寝台から、静かに、口を開いた。

「君を、罪に問わないわけには、いかない」

「……はい」

宰相さまは、深く、頭を下げた。

「陛下に、毒を送り、国を欺き、無実の民を、脅しました。いかなる裁きも、受け入れます」

「ああ。正式な、裁判を、開く」

陛下は、目を閉じた。

「だが、それまでの間は、私の友として、そばにいてくれ。……三十年の、友情まで、毒に、してしまいたくない」

宰相さまの肩が、また、大きく、震えた。

「陛下……!」

「それと」

陛下は、僕を、見た。

「少年。名前を、もう一度、聞かせてくれ」

「ケン、です」

「ケン。そなたに、礼を言わせてほしい」

陛下は、ゆっくりと、体を起こして、深々と、頭を下げた。

大広間が、どよめいた。国王が、平民の少年に、頭を下げたのだ。

「へ、陛下! お、お顔を、上げてください!」

「いや。私だけではない。この国が、そなたに、救われたのだ」

陛下は、顔を上げて、柔らかく、笑った。

「褒美を、考えておく。何が欲しいか、決めておきなさい」

「えっと……」

僕は、少し、迷って、それから、答えた。

「いまは、ひとつだけ、お願いが、あります」

「何だ?」

「お腹が、すきました」

広間が、一瞬、静まり返って、それから、どっと、笑い声に、包まれた。

「ケン! あんた、何言ってんのよ!」

ミレイが、真っ赤な顔で、僕の背中を、ばしんと叩いた。

「だ、だって、朝から、何も食べてないし」

「もう! 空気を、読みなさいよ!」

「ははは! よい、よい」

陛下が、声をあげて、笑った。

「では、まず、王宮の厨房に、命じよう。ケン殿のために、最高の食事を、用意せよ、と」

「やったあ!」

『ぼくも、たべる!』

外套の中から、ギンが、ぽん、と、飛び出した。

ふわふわの銀色の子ぎつねが、貴族たちの前で、くるくると、回った。

「き、狐!?」

「かわいい……」

あちこちから、ため息が、漏れる。

銀牙さんが、そっと、額を押さえた。

「……弟よ。もう少し、威厳を持て」

『いげん、おいしい?』

「食べ物では、ない」

笑い声が、広間じゅうに、広がっていく。

シャンデリアの光が、満月の光と、混ざり合って、優しく、揺れていた。

* * *

その夜、王宮の窓辺で。

僕は、ミレイと、ふたり並んで、月を見上げていた。

食事は、信じられないくらい、美味しかった。けれど、母さんの、かぼちゃのパンには、少しだけ、及ばなかった気がする。

「終わったわね」

ミレイが、ぽつりと、つぶやいた。

「うん。……終わったね」

「あんた、本当に、とんでもないことを、したのよ。国王陛下を、救って、宰相さまを、止めて」

「でも、僕ひとりじゃ、できなかった」

僕は、月を見つめたまま、言った。

「ミレイが、そばにいてくれたから。ヴォルフさんも、銀牙さんも、ギンも、みんなが」

「……ふん。わかってるなら、いいのよ」

ミレイは、そっぽを向いた。

けれど、その横顔が、月明かりの下で、ほんのり、赤かった。

「ねえ、ケン」

「ん?」

「村に、帰ったら」

「うん」

「また、薬屋で、一緒に、お茶、淹れましょうね」

僕は、思わず、笑った。

「うん。もちろん」

そのときだった。

僕の頭の中に、ふわり、と、澄んだ鈴の音が、鳴り響いた。

【雑草鑑定 Lv.2 → Lv.3】

【新しい能力:「記憶鑑定」を習得しました】

【追記:霧に預けた記憶が、ほんの少しだけ、返されました】

「……え?」

胸の奥に、あの夜の記憶の、ほんの端っこが、ふっと、戻ってきた。

冷たいカーペット。遠のく蛍光灯。

そして、そのとき、最後に、僕が思っていたこと。

(……もう一回、やり直せるなら、今度は、誰かの、役に立ちたい)

僕は、目を閉じた。

不思議と、痛くなかった。

ただ、静かな、あたたかい気持ちが、胸いっぱいに、広がっていく。

「ケン? どうしたの?」

「……ううん。何でもない」

僕は、目を開けて、にっこり笑った。

「いい夜だね」

「……そうね」

窓の外では、丸い月が、王都を、静かに、照らしていた。

――第30話へ続く――

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