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第27話 お茶は、誰のもの

夕焼けの谷に、宰相さまの声だけが、静かに響いていた。

「さあ、ケン殿。その水筒を、こちらへ」

花びらでできた幻の手が、僕に向かって、ゆっくりと差し出される。

ミレイが、僕の前に飛び出した。

「渡しちゃだめよ、ケン!」

「わかってる」

僕は、水筒をぎゅっと胸に抱いた。手は、まだ、少し震えている。でも、頭の中は、不思議なくらい、静かだった。

(落ち着け。いつもどおり、まず、見るんだ)

僕は、宰相さまの幻に向かって、そっと唱えた。

(……雑草鑑定。状態鑑定)

文字が、浮かび上がる。

【名称:花びらの幻(ガルヴィン・ノーラン)】

【本体:王都にて、重度の魔力毒に侵されている】

【備考:本体は、黒月花の畑と「繋がって」いた。畑が浄化された衝撃で、いま、激しい苦痛の中にある】

「…………!」

僕は、目を上げた。

幻の宰相さまは、変わらず、にこやかに微笑んでいる。けれど、よく見ると、その額には、うっすらと、汗がにじんでいた。笑みの端が、ほんの少し、引きつっている。

「……苦しいんですね」

「何の話かな」

「畑が、浄化されたから。あなたの体と、あの花は、繋がっていたんでしょう?」

宰相さまの笑みが、ぴたりと止まった。

* * *

沈黙のあと、宰相さまは、ふっと、肩の力を抜いた。

「……聡いね、君は。ヴォルフの目は、確かだったようだ」

「ガルヴィン」

ヴォルフさんが、一歩、前に出た。

「答えろ。なぜだ。なぜ、エレナを」

「なぜ、か」

宰相さまは、花畑を見渡した。夕日に照らされて、月見草が、淡い黄色に揺れている。

「ヴォルフ。君は、私が、エレナを憎んでいたと、思っているのかい?」

「…………」

「違うよ。私は、彼女を、愛していた」

ミレイが、小さく息をのんだ。

「君たちが結ばれるよりも、ずっと前から。薬師院の庭で、彼女が、月見草に水をやっているのを見た、あの日から。……だが、彼女が選んだのは、君だった」

宰相さまの声は、穏やかなままだった。それが、かえって、ぞっとした。

「それでも、私は、友でいようと思った。本当だ。君たちの結婚を、祝福したのも、嘘ではない」

「では、なぜ……!」

「私も、病気だったのだよ」

宰相さまは、静かに、胸元を押さえた。

「生まれつきの病だ。『星蝕病』という。二十歳を過ぎる頃から、少しずつ、魔力が体を食い荒らしていく。治療法は、ない。……ただひとつ、『七つの草』の伝承を、除いては」

「七つの草……」

「ルナリア家は、その草を、守ってきた一族だ。そして、エレナは、その最後の継承者だった」

ヴォルフさんの目が、大きく見開かれた。

「まさか、あの子は、知っていたのか。草のことを」

「ああ。そして、私が、頼んだのだ。『助けてほしい』と」

宰相さまの目が、遠くを見た。

「エレナは、首を横に振った。『七つの草は、誰かひとりのために、使ってはならない。それが、ルナリア家の誓いだから』と」

「…………」

「私は、必死に頼んだ。何度も、何度も。けれど、彼女は、頷かなかった。……そして、私は、間違えた」

宰相さまの声が、初めて、かすれた。

「彼女の庭の月見草を、持ち出して、毒の苗にした。ほんの少しだけ、彼女を弱らせれば、心が揺らぐかもしれないと、思った。彼女が、病に苦しめば、考えを、変えてくれるかもしれない、と」

「貴様……!」

ヴォルフさんが、拳を握りしめた。肩が、小刻みに震えている。

「ところが、彼女は、最後まで、草のことを、口にしなかった。ただ、『ヴォルフには、言わないで』と、微笑んで、逝った」

宰相さまは、乾いた笑いを、こぼした。

「私は、取り返しのつかないことを、したのだ。そう気づいたときには、もう、毒の花は、育ちきっていた。やめることもできず、私自身も、少しずつ、その毒に、蝕まれていった」

夕風が、月見草を、さらさらと揺らした。

僕は、何も言えなかった。

ひどいことをした人だ。許されることじゃない。でも、同時に、その声の奥に、ずっと、ひとりで抱えてきた、重い何かが、見えた気がした。

* * *

「それで」

宰相さまは、顔を上げて、いつもの穏やかな笑みを、取り戻した。

「話は、ここまでだ。ケン殿。その茶を、渡してもらおう」

「……お断りします」

僕は、はっきりと、言った。

花びらの幻の目が、すっと、細くなる。

「ほう。村が、焼かれても、いいのかな」

「その『茶』を、あなたに、渡さないとは、言っていません」

「……何?」

僕は、水筒の蓋を、そっと閉じた。

「お茶は、飲みたい人に、飲んでもらうものです。幻に渡しても、飲めませんよね。……だから、あなた自身が、来てください。王都で。陛下の前で」

「ケン!?」

ミレイが、驚いた声をあげる。

「ちょっと、何、言ってるのよ!」

「大丈夫。聞いて」

僕は、ミレイに、小さくうなずいた。

「僕は、三草の茶を、たくさん作りました。朝露の一滴は、鍋ひとつ分の、解毒薬に、なります。陛下の分と、ヴォルフさんの分と、……あなたの分。ちゃんと、あります」

宰相さまの顔から、笑みが、消えた。

初めて見る、むき出しの、驚きの表情だった。

「……私の、分、だと?」

「はい」

「馬鹿な。私は、君の村を、脅したのだぞ。陛下に毒を盛り、エレナを、死なせた男だ。なぜ、そんな私に」

「僕は、お医者さんじゃありません」

僕は、少し、笑った。

「でも、薬屋の弟子です。病気の人が目の前にいたら、お茶を、淹れたくなっちゃうんです」

「…………」

「怒っている人にも、悲しい人にも。……苦しんでいる人にも」

長い、長い沈黙が、流れた。

花びらの幻が、かすかに、揺らいだ。

「……甘い」

宰相さまが、ぽつりと言った。

「甘いな、ケン殿は。そんなことでは、いつか、足をすくわれる」

「かもしれません」

「だが……」

幻の口もとが、ほんの少しだけ、ゆるんだ。

「エレナも、そういう、甘い子だった」

その瞬間、花びらの輪郭が、ふっと、淡くなった。

けれど、次の瞬間、宰相さまは、顔を引き締めた。

「だが、私は、もう、引き返せない」

「え?」

「君の優しさに、感謝はしよう。しかし、舞台は、すでに整ってしまったのだよ」

宰相さまの声が、低くなった。

「王都の広間では、今、貴族たちが集まっている。今夜、陛下が崩御される、という『知らせ』を、聞くためにね」

「…………!」

「そして、その知らせとともに、こう発表される予定だ。『陛下は、辺境の薬師の少年と、大罪人ヴォルフ・グレイによって、毒殺された』と」

「そんなこと、させない!」

ミレイが、叫んだ。

「それが、できるのだよ」

宰相さまは、静かに、告げた。

「もう、証人も、手の内にある。ロルフ殿も、セドリックも、ダリオも、な」

銀牙さんが、はっと顔を上げた。

「……幻が、破られた」

「え?」

「馬車に結んでいた、我の幻術が、断たれた。……同時に、複数の者が、捕らえられた気配がする」

「正解だ、狐の青年」

宰相さまは、楽しそうに言った。

「馬車の中が空っぽだと、近衛兵が、ようやく、気づいてね。そのまま、全員、王都へ連行した。伯爵は、『ヴォルフ・グレイを逃がした共犯』として、な」

「卑怯者……!」

ミレイが、唇をかみしめる。

そのとき、頭上から、ばさり、と、黒い鳥が、降りてきた。

カラスだった。くちばしに、一通の、黒い封筒をくわえている。

カラスは、僕の足もとに、封筒を、ぽとりと落として、飛び去っていった。

封を切ると、短い文字が、並んでいた。

『日没までに、王宮の大広間へ。ひとりで。

三草の茶を、持って、来い。

来なければ、仲間の命は、ない。

――ガルヴィン』

僕は、手紙を、握りしめた。

「……やっぱり、そう来ましたか」

「ケン」

ミレイが、僕の袖を、ぎゅっとつかんだ。

「行っちゃだめ。罠だわ。絶対に」

「うん。罠だと思う」

「だったら!」

「でも、陛下も、伯爵さまも、セドリックさんも、ダリオさんも、みんな、あそこにいる」

僕は、ミレイの手を、そっと、握り返した。

「それに、宰相さまは、一人で来いって言った。『ひとりで』って。……でも、僕は、ひとりじゃ、行かない」

「え?」

「ミレイ、ヴォルフさん、銀牙さん、ギン。みんなに、お願いしたいことがあるんだ」

僕は、顔を上げた。

「宰相さまは、約束を、守る人じゃない。だから、僕も、約束どおりには、動かない。……お茶は、持っていく。でも、僕のやり方で」

ミレイが、じっと僕を見つめた。それから、ふっと、息を吐いた。

「……ほんと、あんたって、むちゃくちゃなんだから」

「ごめん」

「謝らないでよ。……最初から、付き合うつもりだったんだから」

ヴォルフさんが、静かに、うなずいた。

「私も、行こう。この手で、ガルヴィンと、決着をつけたい」

銀牙さんが、すっと立ち上がった。

「我も、同行する」

ギンが、僕の肩に、ぴょんと飛び乗った。

『ぼくも!』

花びらの宰相さまは、その様子を、じっと見ていた。

やがて、幻が、ゆっくりと、崩れ始めた。

「……楽しみにしているよ、ケン殿」

最後に、そう言い残して、花びらは、夕風に、さらわれていった。

* * *

『人の子よ』

背後から、低い声が、響いた。

白鹿さまが、静かに、僕たちの前に、歩み出た。

『王都まで、星の道を走れば、夜には着く。だが、それでは、間に合わぬ。……我が、おまえたちを、乗せよう』

「えっ、白鹿さまが!?」

『我が背に乗れ。風より、速く、駆ける』

白鹿さまの金色の瞳が、まっすぐ、僕を見つめた。

『森の者たちも、おまえたちを、助けたいと思っている。この森を、救ってくれた礼だ』

谷の木々が、ざわざわと、揺れた。

どこからともなく、小さな毛玉たちが、わらわらと集まってきて、僕たちを、見送るように、並んでいる。

「……ありがとうございます」

僕は、白鹿さまの、大きな背に、手をかけた。

ミレイとヴォルフさんを、引っぱり上げる。銀牙さんは、軽やかに、その後ろに跳び乗った。

「しっかり、つかまっていろ」

「はい!」

白鹿さまが、ぐっと、前足を踏み込んだ。

次の瞬間、景色が、後ろへ、すっ飛んでいった。

森の木々が、光の線になって、流れていく。星影草の道が、金色に、僕たちの足もとを、照らしている。

遠くの空に、まるい、大きな月が、ゆっくりと、昇り始めていた。

(待っていてください、陛下。伯爵さま、セドリックさん、ダリオさん)

僕は、胸の中で、強く、唱えた。

(今夜、すべてを、終わらせます)

――第28話へ続く――

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