第26話 三つの草のお茶と、月見草の親花
黒い花畑は、静まり返っていた。
風が止まっている。鳥の声も、虫の音もない。ただ、無数の黒い花が、赤い芯をぼんやり光らせて、じっと僕たちを見ていた。
「……あと、どれくらいある?」
僕が聞くと、空を見上げた銀牙さんが、低く答えた。
「満月が昇りきるのは、日没の少し後だ。それまで、四刻(約八時間)といったところか」
「王都までは?」
「星の道を走れば、夜までには着く。だが、毒が最も強まる瞬間に、陛下が耐えられるかは、わからぬ」
ミレイが、澄み草の布を口に当てたまま、唇をかんだ。
「じゃあ、先に陛下のところへ行く? それとも、ここで何とかする?」
「ここで、何とかする」
僕は、はっきり言った。
「宰相さまは、この畑を使って、遠くから陛下に毒を送っている。『繋がった者』って、鑑定に出てたよね。つまり、繋がりの根っこは、ここにあるはずなんだ」
「根っこ……」
「それを断てば、陛下は、少なくとも今夜は、助かる」
僕は、深く息を吸って、一歩、黒い花畑に踏み出した。
「ケン殿、無茶だ」
銀牙さんが、僕の腕をつかむ。
「この花粉は、人の体には、強すぎる」
「だから、ちゃんと、準備します。ミレイ、ヴォルフさん。手伝ってください」
* * *
最初の準備は、「お茶」だった。
「いい? ヴォルフさんのノートには、こう書いてあったんでしょ?」
ミレイが、古いノートを開く。
「『解毒には、三つの草が要る。月光草、星影草、朝露草』」
「うん。三つ、全部、ここにある」
僕は、鞄から、小さな包みを出した。村から持ってきた、月光草の葉。それから、星の道の足もとに咲いていた星影草の若葉を、そっと数枚、摘ませてもらった。
ミレイが、小鍋を取り出して、湯を沸かす。ヴォルフさんが、ノートを見ながら、静かに指示した。
「月光草は、五枚。星影草は、二枚。弱火で、三分」
「はい」
「焦るな。火が強いと、成分が飛ぶ。……そう、それでいい」
ヴォルフさんの手つきは、さすがだった。無駄がなくて、まるで、舞のようになめらかだ。
鍋のなかで、淡い光が、二色に混じり合う。月のような白金と、星のような青紫。
「朝露は、どうするの?」
ミレイが、緊張した声で聞く。
僕は、胸元から、小さな瓶を取り出した。透明な雫が、たったひとつ、朝日のかけらみたいに光っている。
「……一滴だけ、だよね」
「でも、このお茶なら、薄めても、効くはずだ」
ヴォルフさんが、うなずいた。
「『三草の茶』は、朝露の力を、他の二つの草が、広げてくれる。一滴で、この鍋いっぱいの、解毒薬になる」
僕は、震える手で、瓶を傾けた。
ぽとり。
雫が、鍋に落ちた瞬間、湯気が、ぱあっと金色に輝いた。甘くて、清々しい香りが、黒い毒の匂いを、押し返すように広がっていく。
「……できた」
鍋のなかで、三つの色が、ゆっくりと渦を巻いている。
僕は、ひとすくいを、水筒に移した。残りは、大きな水袋に、そっと注ぎ入れる。
「これで、陛下の分も、残せる」
「ええ。見事な出来よ」
ミレイが、涙目で、にっこり笑った。
* * *
次の準備は、「道」だった。
「花粉が、一番濃いのは、谷の中心だ」
銀牙さんが、地面に枝で、簡単な図を描く。
「風がなく、花粉が溜まっている。あの中を歩けば、息をするだけで、体が蝕まれる」
「澄み草の布、あと、何枚あるっけ」
「三枚よ。私と、ヴォルフさんと、ケンの分」
「ギンは?」
『ぼく、へいき!』
ギンが、胸を張る。けれど、その尻尾が、ふるえているのを、僕は見逃さなかった。
「ギンは、ここで、待ってて」
『やだ!』
「お願い。ギンの鼻が、必要になる。もし、外から、誰かが近づいてきたら、一番に気づいてほしいんだ。それが、僕たちを守ることになる」
『……わかった』
ギンは、不満そうに、でも、こくりとうなずいた。
『ケン、ぜったい、かえってきてね』
「約束する」
銀牙さんが、立ち上がった。
「我が、風を起こそう。花粉を、道の両脇へ、押しやる」
銀牙さんの両手に、青白い炎が、ぼうっと灯った。狐火だ。
炎が、ゆるやかな風に変わって、黒い花の波を、左右に、さらりとかき分ける。
花畑の真ん中に、一本の細い道が、できた。
「長くは、保たぬ。急げ」
「ありがとうございます!」
僕とミレイとヴォルフさんは、澄み草の布を口に当てて、一列になって、駆け出した。
* * *
道の両側で、黒い花が、ざわざわと揺れていた。
甘ったるい匂いが、布を通して、鼻の奥に忍び込んでくる。頭が、くらくらする。視界が、ところどころ、白くかすむ。
「ケン、大丈夫!?」
「だい、じょうぶ……!」
走りながら、僕は、もう一度、スキルを使った。
(……雑草鑑定!)
【名称:黒月花】
【備考:この畑のすべての花は、中心の「親花」から、魔力を送られている】
【親花の位置:北北東、七十歩先】
「七十歩……!」
「ケン、あれ!」
ミレイが、指さした。
黒い花の海の向こう、ぽっかりと開けた場所に、ひとつだけ、色の違う花が咲いていた。
白い、細い花びら。夕方になると開く、月見草に似た、薄い黄色の花。
「……あれが、親花?」
僕は、足を止めた。
後ろで、ヴォルフさんが、ふらりと、立ち尽くしていた。
「……そんな、馬鹿な」
「ヴォルフさん?」
「あれは、月見草だ」
ヴォルフさんの声が、ひどく、かすれていた。
「エレナの、庭の、月見草だ。あの子が、毎晩、窓から眺めていた、あの花と、同じ株だ」
僕は、息をのんだ。
「宰相は、エレナの庭から、月見草を、持ち出したのだ。そして、それを、毒の花の、親にした」
ヴォルフさんの目から、ぽろぽろと、涙がこぼれた。
「あの子が、愛していた花を。あの子を、殺すための花に……」
「ヴォルフさん」
僕は、ヴォルフさんの手を、ぎゅっと握った。
「この花を、解放してあげましょう」
「…………」
「エレナさんが、愛した花です。毒を送るために、ここにあるんじゃない。本当の姿に、戻してあげたい」
ヴォルフさんは、しばらく、震えていた。
やがて、袖で涙をぬぐって、顔を上げた。
「……ああ。やろう」
* * *
親花の前で、僕は、水筒の蓋を開けた。
三草の茶が、ほのかな光を放っている。
「ヴォルフさん。一緒に、注いでもらえますか」
「……私が?」
「エレナさんの、花ですから」
ヴォルフさんの手が、僕の手に、重なった。
水筒を、ゆっくりと傾ける。
とろり、と、金色の雫が、月見草の根もとに、落ちた。
その瞬間。
ぱあっ、と、白い光が、親花から、溢れ出した。
光は、黒い花畑じゅうに、波のように広がっていく。黒かった花びらが、一枚、また一枚と、白い光に洗われて、透明に、淡く、溶けていく。
赤い芯の光が、ひとつ、またひとつ、消えていく。
枯れていた木々が、ざわり、と鳴った。
地面から、緑の芽が、いくつも、いくつも、顔を出し始める。
「……すごい」
ミレイが、呆然と、つぶやいた。
花畑じゅうが、白い月見草の海に、変わっていた。
夕日を受けて、淡い黄色の花が、いっせいに開いていく。毒の匂いは、もう、どこにもない。かわりに、やさしい、甘い香りが、谷じゅうに満ちていた。
ヴォルフさんが、膝をついた。
親花の花びらに、そっと、指で触れる。
「……エレナ」
花が、ふわり、と揺れた。
風は、吹いていないのに。
まるで、誰かが、「ありがとう」と、微笑んだみたいに。
* * *
『……見事だ』
低い声が、谷の入り口から、響いた。
白鹿さまが、ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。そのあとに、ギンと、銀牙さんが、続いていた。
『森の傷は、これで、癒える。人の子よ、礼を言う』
「いえ。僕だけじゃありません。みんなのおかげです」
ギンが、僕の胸に、ぽんと飛び込んできた。
『ケン! ケン! すごい、においがかわった! もう、こわいにおい、しない!』
「うん。もう、大丈夫」
「ケン殿」
銀牙さんが、静かに、言った。
「陛下の毒の根は、断てたはずだ。だが……」
「はい。体のなかの毒は、まだ、残ってる。陛下に、直接、お茶を、飲んでもらわないと」
「ならば、急ごう。日没まで、あと、わずかだ」
僕たちは、星の道に、戻ろうとした。
そのときだった。
ぞくり、と、背筋が凍った。
月見草の海が、いっせいに、揺れた。
白い花びらが、ひとつ、ふたつ、風もないのに、空へ舞い上がる。それが、花畑の中央に、ゆっくりと、集まって、ひとつの、人影を形づくっていった。
紫の外套。銀灰色の髪。やわらかな笑み。
「……いやはや」
花びらで作られた、宰相さまが、拍手をした。
「素晴らしい。実に、素晴らしい。私の三十年の畑を、一日で、浄化してしまうとは」
「ガルヴィン……!」
ヴォルフさんが、立ち上がる。
「久しぶりだな、ヴォルフ。ずいぶん、顔色が、よくなったじゃないか」
宰相さまの幻は、にっこりと、微笑んだ。
「ケン殿。君が、馬車に乗っていないことくらい、私は、とうに、気づいていたよ」
「……え?」
「あの幻術は、見事だった。狐の仕業だろう? だが、残念だね。私は、最初から、君たちを、泳がせていたのだ」
宰相さまの目が、すうっと、細くなった。
「『三つの草』を、すべて、そろえてもらうために」
僕は、凍りついた。
「七つのうち、三つ。月光草、星影草、朝露草。それさえあれば、私にも、解毒薬が作れる。……陛下のためではない。私自身の、ために、ね」
「あなた自身の……?」
「ああ、そうだ」
宰相さまは、胸に手を当てた。
その胸元から、黒い、細い、蔦のようなものが、ぞろりと、這い出してきた。
「私も、とっくに、毒に侵されているのだよ。自分で育てた、黒月花の、毒にね」
花びらの宰相さまが、ゆっくりと、手を差し出した。
「さあ、ケン殿。君が淹れてくれた、その『三草の茶』を、こちらへ。それを、渡してくれれば、村も、陛下も、見逃してあげよう」
夕焼けの谷に、宰相さまの穏やかな声だけが、響いていた。
僕の手のなかの水筒が、ずしりと、重く感じられた。
――第27話へ続く――




