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第25話 幻の馬車と、森の底の黒い花畑

夜明け前。

薬屋の裏庭に、馬車が一台、停まっていた。宰相さまが用意させた、黒塗りの立派な馬車だ。まわりには、白銀の鎧の近衛兵が、整列している。

僕は、そこから少し離れた、納屋の裏の茂みに、しゃがみ込んでいた。隣には、ミレイとヴォルフさん、そして、銀牙さんとギン。

「いいか。幻は、我が結んでいる間だけ、保つ。音は出せぬ。話しかけられても、返事はできない」

銀牙さんが、小声で言った。

「だから、馬車の中の二人は『眠っている』ことにする。セドリックには、そう説明するよう、頼んである」

「眠り草のお茶、ですよね」

「ああ。ただし、本当に飲ませてはおらぬ」

茂みの隙間から、馬車の扉が、見えた。

朝靄のなか、ゆっくりと、宰相さまが歩いてくる。昨夜と同じ、深い紫の外套。やわらかな笑みも、変わらない。

「おはよう、ロルフ殿。いい朝だね」

「閣下。お待たせして、申し訳ない」

「構わないよ。それで、約束のものは?」

伯爵さまが、馬車の扉を、そっと開けた。

中には、座席にもたれて、すうすうと眠る、小さな少年がいた。その隣には、白い髭の、痩せた老人が、腕を組んで、目を閉じている。

僕と、ヴォルフさんの、幻だ。

「……ほう」

宰相さまは、馬車の中を、じっと見つめた。

僕は、ごくりと唾をのんだ。心臓の音が、耳の奥で、どくんどくんと鳴っている。

「暴れると危険ですので、眠り草の茶で、休ませております」

セドリックさんが、馬車の脇で、ぴしりと頭を下げた。声は、少し震えているけれど、背筋は、まっすぐだ。

「なるほど。賢明な判断だ、セドリック」

宰相さまは、にこやかに、うなずいた。

それから、ゆっくりと、手をのばした。

幻の、ヴォルフさんの、頬に。

(……!)

ミレイが、隣で、息をのむ。銀牙さんの耳が、ぴくりと動いた。

指先が、頬に触れる、その寸前。

「……閣下」

伯爵さまが、静かに言った。

「囚人とはいえ、まだ、正式な裁判を受けていない身です。むやみに触れるのは、法に反しますぞ」

宰相さまの手が、ぴたりと止まった。

しばらく、二人の視線が、ぶつかり合った。

やがて、宰相さまは、ふっと笑って、手を引いた。

「失礼。つい、昔の友の顔を、確かめたくなってね」

「……友、ですか」

「ああ。彼とは、長い付き合いだったから」

宰相さまは、馬車から離れて、空を見上げた。

「懐かしいな。あの頃は、三人で、よく語り合ったものだ。エレナも、ヴォルフも、……私も」

その横顔は、ひどく、穏やかだった。

僕の隣で、ヴォルフさんが、ぎゅっと拳を握りしめるのが、わかった。

「出発しよう」

宰相さまの合図で、馬車が、ゆっくりと動き出した。

車輪の音が、朝靄のなかに、吸い込まれていく。

その音が、完全に聞こえなくなってから、僕は、やっと、息を吐き出した。

「……ばれなかった」

「まだ、始まったばかりだ」

銀牙さんが、静かに言った。

「ここからが、本番だぞ」

* * *

魔の森の入り口には、白鹿さまが、待っていてくれた。

『来たか、人の子よ』

「お願いします、白鹿さま」

『うむ。話は、星の母から聞いている』

白鹿さまは、ゆっくりと、森の奥へ、顔を向けた。

『ついて来なさい。今日は、人の道ではなく、「星の道」を、通る』

「星の道?」

『見れば、わかる』

霧のなかへ、一歩、足を踏み入れた。

その瞬間、足もとの土が、ぽう、と淡い金色に光った。

「……!」

見下ろすと、地面から、小さな紫の葉が、ぽつぽつと顔を出していた。葉の先には、金色の粉。

星影草だ。

それが、まるで道しるべのように、森の奥へ、ずっと、ずっと、続いている。

『星の母が、おまえたちのために、咲かせた。この道を辿れば、人の目に触れず、王都の近くまで、行ける』

「すごい……」

ミレイが、ため息まじりに、つぶやいた。

「こんな薬草の道、学院の本にも、載ってないわ」

「ミレイ、足もと、気をつけて」

「わかってるわよ!」

星影草の道は、木々の根のあいだを、くぐるように、続いていた。

大きな木の根が、天井のように、頭の上に張り出している。そのすき間から、朝の光が、細い糸のように、差し込んでいた。

あちこちから、小さな目が、僕たちをのぞいていた。

苔むした岩のかげから、ふわふわの毛玉のような魔獣が、ひょこりと顔を出す。木の洞から、ふくろうに似た鳥が、ほう、と鳴く。

『みんな、ケンを、しってるよ!』

ギンが、胸を張って言った。

『ケンが、おちゃをのませたこ、いっぱいいるから!』

「え、そうなの?」

僕が手を振ると、毛玉たちが、わらわらと集まってきた。

「き、きゅう!」

「ぴぴっ!」

「なんか、囲まれてるわよ、ケン」

「み、みんな、ごめん! 今は、お茶、持ってないんだ!」

ミレイが、肩を震わせて笑いだした。

「あんた、本当に、人気者ね」

「それ、褒めてる?」

「呆れてるのよ!」

そう言いながらも、ミレイの顔は、楽しそうだった。

ヴォルフさんも、小さく、口もとを緩めていた。

「……不思議なものだな」

「何がですか?」

「私は、五年間、毒を作りながら、ひとりで、暗い研究室にこもっていた。それが、いまは、こうして、毛玉に囲まれた少年のうしろを、歩いている」

「毛玉に囲まれてるのは、僕だけですよ」

「いや。私も、さっき、足を踏まれた」

足もとを見ると、小さな毛玉が、ヴォルフさんの靴の上に、ちょこんと乗っていた。

「きゅう?」

「……どけ、と言うのも、可哀想でな」

ヴォルフさんは、困ったように、笑った。

その笑顔は、薬屋で会ったときの、あの穏やかな老人のものとは、少し違っていた。もっと、素直で、やわらかい。

(この人は、本当は、こういう人だったんだ)

僕は、胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。

* * *

昼になった。

大きな木の根もとに、みんなで腰を下ろして、昼食にした。

母さんのかぼちゃパンを、人数分に切り分けて、配る。

「わ、おいしい!」

ミレイが、ひと口かじって、目を丸くした。

「甘くて、ふわふわで……。ケンのお母さん、すごいわね」

「うん。でしょ」

「なんで、あんたが自慢げなのよ」

「だって、自慢の母さんだから」

ミレイは、一瞬、きょとんとしてから、ふっと目を細めた。

「……いい家族ね」

「ミレイにも、ハンナさんがいるじゃないか」

「うん。そうね」

ミレイは、パンの端を、ちぎって、ギンにあげた。ギンは、嬉しそうに、ぱくりと食べた。

ヴォルフさんも、パンを、そっと口に運んだ。

「……ああ。いい味だ」

「ヴォルフさんも、おかわり、どうぞ」

「いや、もう十分だ。……エレナも、こういうパンを、焼いていたな」

その名前が出ると、場が、しんとなった。

ヴォルフさんは、木の根に、背をあずけた。

「ハンナ義姉さんには、昨夜、少しだけ話した。……エレナの、最期の日のことを」

「話して、もいいんですか?」

「ああ。おまえたちには、聞いてもらいたい」

ヴォルフさんは、遠くを見つめるように、語り始めた。

「あの日も、満月だった。エレナは、窓辺に座って、庭の月見草を、ずっと眺めていた。息が苦しくて、ほとんど、声が出ないのに、私に向かって、微笑んで」

「…………」

「『ヴォルフ。私は、もう、いいのよ。あなたが、毎晩、私のために、頑張ってくれたこと、ちゃんと、知ってるから』と、言ったんだ」

ヴォルフさんの声が、かすかに、揺れた。

「私は、何も、答えられなかった。ただ、手を握って、泣いていた。……それが、最後の会話になった」

ミレイが、ぐすっと、鼻をすすった。

僕は、何も言えなかった。ただ、そっと、ヴォルフさんの隣に、座った。

「ヴォルフさん」

「何だい」

「エレナさんの『ちゃんと、知ってるから』は、本当だったと思います」

ヴォルフさんは、僕のほうを向いた。

「僕は、前の世界で、頑張っても、誰にも気づいてもらえなかった。でも、本当は、気づいてくれる人がいたら、それだけで、救われたと思うんです。エレナさんは、ちゃんと、見てくれていた。だから、あんなふうに、笑えたんだと思います」

ヴォルフさんの目から、ぽろりと、涙が落ちた。

「……ありがとう、ケン殿」

「どういたしまして」

僕は、水筒から、夏風茶を注いで、渡した。

ヴォルフさんは、それを、ゆっくりと、飲み干した。

* * *

午後は、ひたすら、歩いた。

星影草の道は、やがて、森の奥の、深い谷へと、降りていった。

木々が、だんだん、まばらになる。空気が、重たくなっていく。

「……おかしい」

最初に気づいたのは、銀牙さんだった。

「森の匂いが、変わった」

『ケン、ケン』

ギンが、僕の外套の中で、小さく震えた。

『くさい。すごく、くさい。にがくて、くろくて、いやなにおい』

僕も、鼻を動かした。

確かに、甘ったるいような、苦いような、嫌な匂いが、風に混じっている。

「ミレイ、気分は?」

「……ちょっと、頭が重いわ」

「ヴォルフさんは?」

「私も、少し、めまいが」

僕は、慌てて、ミレイとヴォルフさんに、澄み草の汁を染みこませた布を、渡した。

「口と鼻に、当てて。毒を、吸わないように」

「わかったわ」

星影草の道は、そこで、ぷつりと途絶えていた。

代わりに、目の前に、広がっていたのは。

「…………っ」

僕は、言葉を失った。

谷の底いっぱいに、黒い花が、咲いていた。

数え切れないほどの、黒い、小さな花。花びらは、墨を溶かしたように真っ黒で、中心だけが、血のように赤く、ぼんやりと光っている。

そのまわりでは、森の木々が、枯れて、白く朽ちていた。草も、苔も、色を失っている。

まるで、森の命を吸い取って、咲いているようだった。

『……これは』

白鹿さまが、苦しげに、声を絞り出した。

『何者かが、我が森に、毒の種を、植えた』

「毒の、種……?」

僕は、震える手で、足もとの黒い花に、手をかざした。

(……雑草鑑定)

文字が、浮かび上がる。

【名称:黒月花(くろつきばな)】

【効能:満月の夜に、毒の花粉を放つ。吸った者の魔力を、少しずつ蝕む】

【備考:栽培者の魔力により、「繋がった者」へ、遠く離れていても、毒を届けることができる】

【栽培者:ガルヴィン・ノーラン】

「………………」

頭の中が、真っ白になった。

ミレイが、僕の袖を、つかんでいる。ヴォルフさんが、よろめいて、膝をついた。

「これだ……」

ヴォルフさんの声は、ほとんど、囁きだった。

「エレナの、病の正体は、これだ。……三十年前から、あの男は、ずっと」

「ヴォルフ殿、落ち着け」

銀牙さんが、肩を支える。

僕は、文字の、続きを見た。

そこに、もうひとつ、赤い一行が、浮かんでいた。

【警告:この畑の花粉は、今夜の満月で、最も強くなる。「繋がった者」――国王アルフレッドは、今夜、命を落とす】

「…………!」

「今夜、って、言った!?」

ミレイが、悲鳴のような声をあげた。

僕は、空を見上げた。

森の隙間から、白い、まるい月が、ぼんやりと、昼の空に、浮かび始めている。

今夜は、満月。

陛下の命が、尽きるまで、あと、半日。

――第26話へ続く――

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