第24話 母のかぼちゃパンと、青い爪の報告書
陛下からの手紙は、地下室のランプの下で、一人ずつ順番に読まれていった。
最初に読んだハンナさんは、深く息をついた。次に読んだ伯爵さまは、手紙を持つ指が白くなっていた。最後に読んだヴォルフさんは、文字を指でなぞるようにして読み終え、静かに目を閉じた。
「……アルフレッド陛下の字だ」
「わかるんですか?」
「若い頃、何度も陛下の薬を調合した。この右肩上がりの癖字は、間違いない」
セドリックさんが、青い顔で口を開いた。
「しかし、陛下は意識がないと……。私は、毎週、王都からの報告書で、陛下の容体を」
「報告書、かい」
ハンナさんが、静かに言った。
「セドリック。おまえさんは、陛下ご自身を、診たことがあるのかい?」
長い沈黙が落ちた。
「……いいえ」
絞り出すような声だった。
「陛下の寝所には、宰相閣下と、閣下の侍医団しか入れませんでした。私が受け取っていたのは、侍医団がまとめた容体の報告書だけです。それを読んで、私は『黒月の涙』だと判断しました」
「宰相の用意した情報だけを見て、結論を出したんだね」
「はい。……師を捜すよう命じられたとき、疑うべきでした。なぜ、一介の副院長に、そんな大役を、と」
セドリックさんは、両手で顔をおおった。
「自分を責めるのは、あとにしな」
ハンナさんは、ぴしゃりと言った。
「いま大事なのは、これからどうするかだ」
* * *
僕は、手紙を、もう一度、広げた。
「手紙には、『宰相の馬車ではなく、森の者の力を借りて、ひとりで来てほしい』とあります。でも、三日目の朝、僕たちが馬車に乗らなかったら……」
「村が、焼かれる」
伯爵さまが、低く言った。
「近衛兵は、三十人。この村を守るには、私の兵だけでは、足りん」
「ならば、馬車には、乗ったことにすればよい」
静かな声が、地下室の隅から聞こえた。
銀牙さんだった。
「狐は、化かすのが得意だ。我の幻術で、ケン殿とヴォルフ殿の姿を、馬車の中に映す。宰相の目には、二人が確かに乗っているように見えるだろう」
「そんなことが、できるんですか?」
「ただし、三日までだ。それ以上は、保てぬ」
「三日あれば、王都には着ける」
僕は、顔を上げた。
「馬車は、幻の僕たちを乗せて、街道をゆっくり進む。その間に、僕たちは、森の道を通って、先回りする。森の主さまの力を、お借りして」
「馬車には、私が同乗しよう」
伯爵さまが、胸に手を当てた。
「宰相の目を引きつけるのは、私の役目だ。領主の同行は、不自然ではない」
「私も、乗ります」
セドリックさんが、顔を上げた。まだ青いけれど、眼鏡の奥の目は、まっすぐだった。
「宰相閣下が、いまも私を信用していると思っているなら、それを利用します。幻のお二人の『付き添い』として、閣下のそばにいる。私が、時間を稼ぎます」
「セドリックさん……」
「償いの、第一歩にさせてください」
ダリオさんも、勢いよく手をあげた。
「自分も、馬車の護衛を務めます! 今度こそ、本当に、お役に立ちます!」
「ダリオ、声が大きい」
「も、申し訳ありません!」
小さな笑いが、地下室に広がった。重たかった空気が、少しだけ、ほどけた。
「それで、森の道を行くのは、誰だい?」
ハンナさんが尋ねた。
「僕と、銀牙さんと、ギン。それに、ヴォルフさんです。陛下の毒を見分けるには、ヴォルフさんの知識がいります」
「私も行くわよ」
ミレイが、腕を組んで言った。
「もう、止めても無駄だって、わかってるでしょ」
「……うん。お願い、ミレイ」
「素直でよろしい」
ハンナさんが、大きく息をついた。
「じゃあ、私は、村に残るよ。おまえさんたちが戻るまで、ここを守る。井戸も、子どもたちも、おじいさん連合もね」
ヴォルフさんが、ハンナさんの手を、そっと取った。
「義姉さん。必ず、戻ります」
「当たり前だよ。まだ、エレナの話を、半分も聞いていないんだからね」
* * *
出発の前の日。
家に帰ると、台所から、いい匂いがした。
「ケン、おかえり。ちょうど、焼き上がったところよ」
母さんが、かぼちゃのパンを、オーブンから取り出していた。ふっくらと黄金色で、湯気と一緒に、甘い香りが広がる。
「お兄ちゃん、これ、私も手伝ったの!」
リナが、粉だらけの顔で、胸を張った。
「ありがとう、リナ。すごくおいしそうだ」
「でしょ! それとね、これ、あげる」
リナが、ポケットから、小さなお守りを取り出した。
四つ葉のクローバーを、細い糸で編んで、小さな布の袋に包んである。ところどころ、糸がよれていて、一生懸命作ったのがわかった。
「お兄ちゃんが、ちゃんと、帰ってこられますようにって、おいのりしたの」
胸の奥が、きゅっとなった。
「……ありがとう。大事にする」
「ぜったい、かえってきてね。やくそく」
「うん。約束」
僕は、リナの小さな小指に、自分の小指を、からめた。
母さんが、焼きたてのかぼちゃパンを、布に包んで、僕に持たせてくれた。
「ケン。何があっても、ごはんは、ちゃんと食べるのよ」
「うん」
「眠れない夜も、お母さんの顔を、思い出しなさい」
「うん。……母さん」
「なあに?」
「僕、母さんの子どもに生まれて、よかった」
母さんは、目をまるくして、それから、ぽろりと涙をこぼして、僕をぎゅっと抱きしめた。
「……お母さんもよ。ケンが、うちの子で、よかった」
台所に、かぼちゃパンの、甘い匂いが、いつまでも残っていた。
* * *
その夜、薬屋の地下室では、最後の打ち合わせが、続いていた。
ランプの下で、ヴォルフさんが、セドリックさんの持ってきた報告書の束を、一枚ずつめくっている。
「セドリック。すまないが、最新の報告書の、症状の欄を、読み上げてくれ」
「はい」
セドリックさんは、紙を受け取って、ゆっくり読み始めた。
「『夜間の発熱。昼間の悪寒。爪の青変。指先のしびれ。満月の夜に、症状が悪化する』」
その言葉が終わった瞬間。
ヴォルフさんの手から、報告書が、はらりと落ちた。
「……師?」
ヴォルフさんは、動かなかった。唇が、小刻みに震えている。顔から、血の気が引いていくのが、ランプの明かりの下でも、はっきりとわかった。
「ヴォルフさん? どうしたんですか?」
「……違う」
かすれた声が、床に落ちた。
「『黒月の涙』は、そんな症状を、出さない」
「え?」
「あの毒は、体を、少しずつ弱らせるだけだ。熱も、悪寒も、緩やかにしか出ない。爪が青くなることも、満月の夜に悪化することも、ありえない」
ヴォルフさんは、震える手で、自分の爪を見つめた。
「でも、私は、この症状を、知っている」
「どこで、ですか」
長い、長い沈黙のあとで、ヴォルフさんは、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、焦点を失って、遠い昔を、見つめていた。
「……エレナだ」
「…………」
「エレナの病と、まったく、同じだ。夜に熱を出して、昼に震えて、爪が青くなって。満月が近づくたびに、苦しみが、増していった」
地下室の空気が、凍りついた。
ハンナさんの手が、口もとに、伸びた。
「ちょっと待っておくれ。じゃあ、陛下の毒は、エレナと、同じ……」
「あの子は、本当に、病気だったのでしょうか」
ヴォルフさんの声は、ほとんど、囁きだった。
「あの子の、あの苦しみは。あの、治療法のない、重い病は」
ランプの火が、ふっと、揺れた。
「……誰かに、盛られた、ものだったのかもしれない」
僕は、息をのんだ。
王様の毒と、エレナさんの病。
三十年の時を超えて、ふたつの糸が、いま、ひとつに、結ばれようとしていた。
そして、その糸の先には、いつも、同じ人が、笑顔で立っている気がした。
「親友」と呼ばれた、あの宰相さまが。
――第25話へ続く――




