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第23話 霧に預けた夜と、白い鳩の手紙

白い霧のなかで、僕は、ひとりだった。

足もとも、空も、見えない。ただ、さっきの声だけが、静かに響いている。

『この世界での、大切な記憶を預けるか。それとも、前の世界でのすべてを、預けるか』

(……どっちも、嫌だ)

正直な気持ちだった。

母さんの笑顔も、リナの手のぬくもりも、ミレイの怒った顔も、ハンナさんの掌も、手放したくない。ぜんぶ、この世界で、初めて手に入れた宝物だ。

でも、前世のすべてを預ける、というのも、違う気がした。

あのブラックな職場は、苦しかった。思い出したくない夜も、たくさんある。けれど、あの日々があったから、僕は、いまの僕になった。「役立たず」と言われ続けた痛みを知っているから、ゴードンさんの腰を治したとき、お代を受け取れなかった。追い詰められた人の目が、わかるから、ヴォルフさんに、お茶を差し出せた。

「……ひとつ、聞いてもいいですか」

『申してみよ』

「どちらか、じゃなきゃ、だめですか」

『ほう』

霧の声が、興味深そうに、ゆれた。

『預けるものは、おまえが、自分の意思で差し出すものでなければならぬ。そして、おまえにとって、重いものでなければならぬ。……他に、案があるか』

僕は、目を閉じた。

浮かんできたのは、あの夜の光景だった。

深夜のオフィス。冷たいカーペットの感触。遠のいていく蛍光灯。「役立たず」と言った、部長の声。誰もいないフロアで、ひとり、倒れていった自分。

あれは、僕の人生で、いちばん、さみしくて、悔しい夜だ。

でも。

「……僕が預けるのは、前の世界で、死んだ夜の記憶です」

『ほう』

「どうやって倒れたか。誰に何を言われたか。何を考えながら、意識がなくなったか。……その夜のこと、ぜんぶ、です」

霧が、しんと静まった。

『それは、「大切な記憶」とは、言えぬのではないか? おまえにとって、苦しいだけの記憶であろう』

「苦しいです。思い出すたびに、胸が痛い」

僕は、ゆっくりと、言葉を探した。

「でも、あの夜があったから、僕は、決めたんです。もし、やり直せるなら、今度は、誰かの役に立ちたい。誰かを、ひとりにしたくない、って。……それは、僕が、ここで生きる理由の、いちばん最初の記憶だから」

『…………』

「だから、いちばん、重いんです。大切で、重くて、痛い記憶。それじゃ、だめですか」

長い沈黙が、流れた。

やがて、霧が、さざ波のように、ふるえた。

笑っている、のだと、気づいた。

『……はっはっは』

低くて、やさしい笑い声だった。

『数百年、この谷を守ってきたが、おまえのような答えは、初めてだ』

『ほとんどの者は、楽しい記憶を、差し出す。祝いの日、愛する者の顔、誇らしい瞬間。だが、おまえは、自分に傷を残した記憶を、差し出した』

『それは、おまえが、前を向くために、一番大切にしていた「傷」だ』

「……はい」

『よかろう。預かろう』

霧が、僕の頭のまわりを、ゆっくりと、撫でていった。

あたたかい手に、触れられたみたいだった。

『安心せよ、少年。この記憶は、霧が、大切に守る。返す日は、おまえが、もう「あの夜」に、しがみつかなくても、前を向けるようになったときだ』

『その日まで、おまえは、あの夜の苦しみから、自由だ』

胸の奥から、何かが、すうっと、抜けていった。

悲しいはずなのに、不思議と、涙は出なかった。ただ、長いあいだ、背負っていた重い荷物を、ひとつ下ろしたみたいに、体が、軽くなった。

『行きなさい、ケン。星の母に、よろしく』

霧が、ゆっくりと晴れていく。

* * *

「ケン! ケン!!」

目を開けると、ミレイが、僕の肩を、がくがくと揺さぶっていた。

「起きて! お願い、起きてよ、ばか!」

「……ミレイ、痛い」

「痛いなら、起きてるってことじゃない!」

ミレイは、ぼろぼろと泣きながら、僕に抱きついてきた。

銀牙さんも、ダリオさんも、ほっとした顔で、膝をついている。ギンが、僕の胸に飛び込んできて、ぺろぺろと顔を舐めた。

『ケン! ケンのにおいが、ちょっとだけ、かわった!』

「え?」

『かなしいにおいが、へってる!』

僕は、ふと、自分の手を見た。

小さな瓶のなかで、透明な雫が、朝日を受けて、きらりと光っている。

「……取れたよ。朝露」

「そんなこと、どうでもいいわよ!」

ミレイが、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、僕を睨んだ。

「ねえ。私の名前、言える?」

「ミレイ」

「お母さんの名前は?」

「えっと……母さんは、母さんだよ。名前は、マーサ」

「妹は?」

「リナ」

「あんたの、いちばん好きな食べ物は?」

「ええと、母さんの焼いた、かぼちゃのパン」

「…………」

ミレイは、しばらく僕の顔を見つめたあと、がくりと肩を落とした。

「……よかった」

それから、思い切り、僕の腕を叩いた。

「いたっ!」

「大ばか! もう二度と、こんな無茶しないで!」

「ごめん」

「口だけの『ごめん』は、いらないのよ!」

そう言いながらも、ミレイは、僕の袖を、ぎゅっとつかんで、離さなかった。

* * *

帰り道、馬の背に揺られながら、僕は、ミレイに、霧と話したことを、ぜんぶ伝えた。

「……前の世界で、死んだ夜の記憶を、預けた?」

「うん。いつか、返してもらえるって」

「それって、つらい記憶でしょう? 預けて、よかったの?」

「うーん」

僕は、少し考えて、答えた。

「いま、あの夜のことを、思い出そうとしても、霧がかかったみたいに、ぼんやりしてる。前は、思い出すたびに、胸がぎゅっとなったんだ。でも、いまは、そうならない」

「……それは、いいことなの?」

「わからない。でも」

僕は、後ろを振り返って、笑った。

「いまは、すごく、体が軽いんだ。のんびり、できそうな気がする」

ミレイは、むっとした顔のまま、小さくつぶやいた。

「……なら、いいわよ」

「ミレイ、顔、赤いよ」

「朝日のせいよ!」

* * *

村に戻ったのは、昼過ぎだった。

でも、広場の様子が、どこか、おかしい。

村人たちが、広場の真ん中に、輪になって集まっている。その中心で、ゴードンじいさんが、何かを、そっと抱えていた。

「ケン坊! 戻ったか!」

「ゴードンさん、どうしたんですか?」

「それがなあ、さっき、空から、これが落ちてきたんだ」

じいさんの腕のなかに、一羽の、白い鳩がいた。

雪のように白い羽。足に、小さな銀の筒が、くくりつけられている。

鳩は、ぐったりとしていて、けれど、必死に、僕のほうを見ていた。

「……弱ってる」

僕は、馬から降りて、鳩のそばに駆け寄った。

(……雑草鑑定。状態鑑定)

【名称:伝書鳩(王家の紋章つき)】

【状態:疲労。三日三晩、飛び続けた模様】

【備考:足の筒に、国王の封蝋あり】

「…………!」

僕は、息をのんだ。

国王の、封蝋。

宰相さまが、「陛下は、意識がない」と言った、あの王様の。

「ミレイ、お湯と、月光草の葉、お願い!」

「わかった!」

鳩に、ぬるめの月光草のお茶を、少しずつ飲ませる。ほどなくして、鳩は、元気を取り戻して、ぱたぱたと羽を動かした。

僕は、そっと、足の筒を外して、中の羊皮紙を、広げた。

震える、細い字だった。

『ケンという薬屋の少年へ。

私は、この国の王、アルフレッドである。

宰相は、私が起きていることを、知らない。

三日前、私は、かろうじて目を覚ました。それから、ずっと、眠ったふりを続けている。

宰相を、信じてはならぬ。

あの男は、私の友だった。だが、いまは、違う。

私の毒は、「黒月の涙」ではない。

もっと、別の何かだ。

どうか、この手紙を、誰にも見せず、ひとりで、王都へ来てほしい。

宰相の馬車ではなく、森の者の力を借りて。

お願いだ。この国を、救ってくれ。

――アルフレッド』

読み終えた瞬間、背中を、冷たい汗が、流れ落ちた。

「ケン……? 何て、書いてあったの?」

ミレイが、不安そうに、僕の顔をのぞき込む。

僕は、手紙を、ぎゅっと握りしめた。

陛下は、意識がある。

宰相さまは、嘘をついている。

そして、陛下の毒は、「黒月の涙」ではない。

「……ミレイ。ハンナさんと、ヴォルフさんを、呼んで」

「どうしたの?」

「陛下からの、手紙だ」

広場の空には、白い雲が、ゆっくりと流れていた。

けれど、その静かな青空の下で、僕の頭のなかでは、すべての糸が、新しい形に、ほどけ始めていた。

宰相さまの笑顔。解毒剤の痕跡。盗まれた研究ノート。

そして、「黒月の涙」ではない、もうひとつの、毒。

(……ヴォルフさんが作った毒じゃ、ない)

じゃあ、陛下を蝕んでいるのは、いったい、何なのか。

――第24話へ続く――

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