第20話 祭りの夜、毒を持たない老人と一杯のお茶
それから三日間、村はおかしなくらい平和だった。
朝は、おじいさん連合が水樽の前に座って、試し紙を水に浸す。青いままなら「異常なし!」の大声が、広場に響く。子どもたちの見張り隊は、木の棒を掲げて村じゅうを巡回し、すれ違う大人に「あやしくないですか?」と聞いて回っていた。
「あやしい人、いませんでした!」
「うむ、ご苦労!」
「たいちょー、おやつは?」
「見張りの最中は、おやつ禁止だ!」
「ええー!」
ダリオさんの威厳は、残念ながら、三日間ずっと空回りしていた。
そんな賑やかな村のなかで、ひとりだけ、静かな人がいた。
ハンナさんだ。
あの夜から、ハンナさんは、ほとんど口をきかなかった。調合の手は動いているけれど、目は、どこか遠くを見ている。
* * *
祭りの前の夜。僕は、薬屋の台所で、ミレイがハンナさんの前に座っているのを見かけた。
「……おばあちゃん」
「何だい」
「エレナ大おばさんって、どんな人だったの?」
ハンナさんの手が、ぴたりと止まった。
しばらくして、ぽつりと、答えが返ってくる。
「ミレイに、よく似ているよ」
「え?」
「負けず嫌いで、口が悪くて、そのくせ、人一倍、涙もろくてね。私が薬師になると言ったとき、一番に反対したのは、あの子だった。『お姉ちゃんが家を出たら、誰が私の話を聞いてくれるの』って、泣いて怒って」
ハンナさんは、小さく笑った。
「それで、喧嘩別れさ。三十年も前の話だよ」
「……会いに行けばよかったのに」
「そうだね。今なら、そう思う」
ハンナさんの声が、かすかに震えた。
「手紙を、何度も書いたんだ。でも、一度も出せなかった。『今さら、何を言えばいいんだ』ってね。そうやって先延ばしにしているうちに、ある日、訃報が届いた」
ミレイは、黙って立ち上がった。
そして、ハンナさんの後ろに回って、そっと、その肩に腕を回した。
「……ミレイ?」
「私は、先延ばしにしないから」
ミレイは、ハンナさんの背中に、顔をうずめた。
「おばあちゃんが寂しいときは、ちゃんと、そばにいるから。だから、ひとりで抱え込まないで」
「……おや、生意気を言うようになったね」
そう言いながら、ハンナさんの手が、ミレイの腕に、そっと重なった。
僕は、そっと、台所の戸を閉めた。
(ミレイは、すごいな)
僕には、まだ、あんなふうに、人の心に寄り添う勇気はない。
* * *
そして、祭りの夜が来た。
村の広場は、無数の提灯で、橙色に染まっていた。中央の櫓では、太鼓の音が、どんどん、と腹に響く。屋台には、焼いた川魚、蜂蜜菓子、果物の串焼き。どれも、いい匂いだ。
「お兄ちゃん! 見て見て!」
リナが、新しい浴衣を着て、くるりと回った。屋根を直したお金で、母さんが、仕立ててくれたものだ。
「かわいいね、リナ」
「えへへ。お母さんも、見て!」
母さんも、いつもより、ずっと明るい顔をしていた。
「ケン、あなたも、ちゃんと楽しみなさいよ。ずっと難しい顔をしているわ」
「うん。わかってる」
そう答えたけれど、胸の奥は、ずっと、ざわざわしていた。
広場の隅に、夏風茶の屋台が出ている。ミレイと二人で、朝から仕込んだ二百杯。冷たい壺から、小さな杯に、ひとつひとつ注いでいく。
「ケン兄ちゃん、おかわり!」
「ミレイ姉ちゃん、おいしいよ!」
子どもたちの笑顔が、並んでいる。
「……よかった」
ミレイが、そっと、つぶやいた。
「みんな、楽しそうね」
「うん」
「あんたが、守ったのよ」
「まだ、終わってないよ」
僕は、ちらりと、広場の端を見た。
水樽の前では、ゴードンじいさんたちが、順番に試し紙を浸している。
「青だ!」
「こっちも、青だ!」
どこの樽も、異状なし。
ギンの兄弟たちも、屋台の下で、くんくんと鼻を鳴らしていた。ときどき、僕のほうを向いて、尻尾を振る。「だいじょうぶ」の合図だ。
(……本当に、何も起きないんだろうか)
そう思った、そのときだった。
「きゅうっ!」
屋台の下から、ギンが、ぴょん、と飛び出してきた。
『ケン! におい! あの、くろくて、にがい、におい!』
「どこ?」
『みずじゃない! あっち! おみせのうしろ!』
ギンの小さな前足が、薬屋のほうを指している。
薬屋。
裏庭。
星影草の、若芽。
「ミレイ、ここ、お願い!」
「ちょ、ちょっと、ケン!?」
僕は、杯を置いて、駆け出した。後ろから、銀牙さんの足音が、風のように追いついてくる。
「ケン殿。我も行く」
「お願いします!」
人混みをかき分けて、提灯の明かりを後ろに置き去りにしていく。祭りの太鼓の音が、遠ざかっていく。
* * *
薬屋の裏庭は、静まり返っていた。
月光草の畑が、ほのかに青く光っている。その隣で、星影草の若芽が、金色の光を、ゆっくりと明滅させていた。
そして、その前に。
ひとりの老人が、座っていた。
深い緑の外套。長い白い髭。膝の上に、小さな黒いガラスの小瓶。
「……来たね、ケン殿」
ヴォルフ・グレイは、静かに、顔を上げた。
月明かりの下で見る彼は、薬屋で会ったときより、ずっと小さく、ずっと疲れて見えた。頬はこけて、唇の色は、ほとんど失せている。
銀牙さんが、僕の前に出ようとした。僕は、その腕を、そっと押さえた。
「大丈夫です」
「しかし……」
「話をしに来たんです」
僕は、一歩、前に出た。
「井戸の毒は、本物でしたか」
「ああ」
ヴォルフさんは、あっさりと、うなずいた。
「本物だ。……村の者が、全員、倒れるほどの量だった」
背中が、ひやりとした。
「でも、澄み草が吸い取った。おまえの勝ちだ」
「祭りの夜の水は、一本ではない、と書きましたね。あれは、どういう意味だったんですか」
ヴォルフさんは、少しだけ、目を細めた。
「おまえが、どう動くか、見たかった」
「……え?」
「毒を盛る者を、止めるのは簡単だ。力で押さえればいい。だが、おまえは、兵を呼ばなかった。村の者に、頼った。そして、誰も恐れさせずに、守る方法を、見つけた」
ヴォルフさんは、膝の上の小瓶を、ゆっくりと転がした。
「それが、私には、できなかったことだ」
「…………」
「今夜、私は、ここに、毒を持って来た。祭りの樽に、もう一度、入れるつもりだった」
小瓶が、ことり、と地面に置かれる。
「だが、ここに座って、広場の太鼓を聞いているうちに、手が、動かなくなった。……情けない話だよ。五年間、毒を作り続けて、結局、私は、誰ひとり、殺せなかった」
声が、かすれていた。
僕は、ゆっくりと膝をついて、ヴォルフさんの前に、水筒を置いた。
「お茶を、持ってきました」
「……茶?」
「夏風茶です。冷たくて、甘いですよ。毒は、入っていません」
僕は、小さな杯に、淡い青色のお茶を注いだ。
ヴォルフさんは、じっと、その杯を見つめていた。
「怒っているときは、ひと息つくといい、と、白鹿さまに教えました。でも、悲しいときも、同じだと思うんです」
長い、長い沈黙が流れた。
やがて、震える手が、杯を受け取った。
ひとくち。
ふたくち。
「……甘い」
ヴォルフさんの目から、ぽろり、と、涙が落ちた。
「エレナも、夏には、こういう冷たいお茶を、好んで飲んでいた。……花の香りの、つけてあるやつを」
その声は、もう、先ほどまでの、毒を持つ老人の声ではなかった。
ただの、妻を亡くした、ひとりの夫の声だった。
* * *
「……ヴォルフ」
背後から、かすれた声が聞こえた。
振り返ると、ハンナさんが、裏庭の入り口に立っていた。その横に、ミレイもいる。
ヴォルフさんの手から、杯が、ぽとりと落ちた。
「……義姉さん」
「ずいぶん、痩せたね」
ハンナさんは、ゆっくりと、近づいてきた。
「エレナの、葬式にも、行けなかった。あんたに、ひと言も、かけてやれなかった」
「義姉さんのせいでは、ありません。私が、連絡を、しなかったのです。あの子が、最期まで、あなたに会いたがっていたのに」
「……会いたがって、いた?」
「毎日、窓の外を見ていました。『お姉ちゃんが、来るかもしれない』と。……でも、私は、あなたに知らせる、勇気がなかった。喧嘩したまま、死なせてしまったと、責められるのが、怖かった」
ハンナさんの足が、止まった。
肩が、小刻みに震えている。
「……馬鹿だね」
ぽつりと、声が落ちた。
「馬鹿だよ、あんたも、私も。三十年も、同じ意地を張って」
ハンナさんは、膝をついて、ヴォルフさんの痩せた肩を、ぎゅっと抱きしめた。
「遅いよ、馬鹿者」
「……申し訳、ありません」
「謝るなら、生きて、謝りな。勝手に、いなくなろうとするんじゃないよ」
ヴォルフさんの肩が、小さく、震え始めた。
ミレイが、鼻をすすっている。僕も、気づいたら、目の奥が、熱かった。
銀牙さんは、そっと、顔をそらして、空を見上げていた。耳が、ぺたんと伏せられている。
* * *
しばらくして、僕は、ヴォルフさんに、状態鑑定を使った。
【名称:ヴォルフ・グレイ】
【状態:重度の魔力毒。月光草の力により、進行が停止】
【備考:月光草と星影草を併用すれば、完治の可能性あり】
「……ヴォルフさん。まだ、助かります」
「何だって?」
「僕の薬で、体の毒を、抜けるかもしれません。時間はかかりますが」
ヴォルフさんは、驚いたように、僕を見つめた。
「私は、陛下に、毒を盛った男だぞ」
「…………」
僕は、少し迷って、そして、一番気になっていたことを、尋ねた。
「ヴォルフさん。陛下に毒を盛ったのは、本当に、あなたなんですか?」
その瞬間、ヴォルフさんの目が、ふっと、鋭くなった。
「……やはり、そこに、気づいたか」
「え?」
「私が『黒月の涙』を、自分で飲み続けていたのは、事実だ。井戸に毒を入れたのも、事実だ。だが」
ヴォルフさんは、深く息を吸った。
「陛下には、一滴も、盛っていない」
裏庭が、凍りついた。
セドリックさんが、いつのまにか、入口に立っていた。顔が、真っ青だった。
「そんな、馬鹿な。陛下の症状は、確かに、『黒月の涙』の……」
「セドリック。お前は、昔から、観察の鋭い子だった」
ヴォルフさんは、静かに言った。
「『黒月の涙』の製法は、私の研究ノートにしか、書かれていない。そのノートは、五年前、私が王宮を去る前の晩に、研究室から、盗まれたのだ」
「盗まれた……?」
「あの晩、私は、エレナの墓参りに行っていた。戻ると、金庫が開けられ、ノートは消えていた。犯人は、わからなかった。だが、ひとつだけ、わかったことがある」
ヴォルフさんは、まっすぐ、セドリックさんを見た。
「あの金庫の鍵を持っていたのは、私と、もうひとりだけだ」
「……もう、ひとり?」
「お前を、私のもとへ送り込んだ人物は、誰だ、セドリック」
セドリックさんの唇が、震えた。
「それは……宰相閣下、です。ガルヴィン・ノーラン宰相閣下が、『師の行方を捜せ』と」
その名前が出た、瞬間。
遠くの広場から、太鼓の音が、ぴたり、と止まった。
代わりに、聞こえてきたのは、馬のいななきと、慌ただしい足音。
「ケンどのーっ! 大変です、大変ですーっ!」
息を切らして駆けてきたのは、ダリオさんだった。顔は、真っ青で、鎧は、ずれている。
「どうしたんですか、ダリオさん!」
「お、王都からの使者団が、広場に、到着しました!」
「使者団?」
「それも、ただの使者ではありません! 先頭にいらっしゃるのは……」
ダリオさんは、ごくりと唾をのんで、続けた。
「宰相閣下、ご本人です!」
僕たちは、一斉に、顔を見合わせた。
ヴォルフさんの顔が、苦々しく歪んだ。
「……やはり、来たか」
祭りの夜は、まだ、終わらない。
七つの草も、黒月の涙も、森の怒りも。
すべての糸が、いま、この小さな村の広場で、ひとつに、絡み合おうとしていた。
――第21話へ続く――




