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第18話 老人の本当の目的と、真っ黒な井戸

ヴォルフ・グレイが去ったあとも、薬屋の中は、しばらく静まり返っていた。

「ケン、大丈夫!?」

最初に動いたのは、ミレイだった。僕の腕をつかんで、顔をのぞき込む。

「う、うん。何もされてない」

「あの人、本物なの!? あんなに優しそうな顔して!」

そのとき、奥の戸が勢いよく開いた。銀牙さんが飛び出してくる。

「すまない、気配を殺すので精一杯だった。奴は……」

「もう行っちゃいました」

「追う」

銀牙さんは、一瞬で外へ駆け出した。

十分後、戻ってきた銀牙さんは、悔しそうに首を振った。

「森の入り口まで追ったが、霧に消えた。……あの男、ただの人間ではない。足跡が、途中で途切れていた」

「魔術で姿を隠したのでしょう」

奥から出てきたセドリックさんの顔は、紙のように白かった。

「師は、昔から、魔術にも長けておられました。薬師が、薬以外の術を使うのは異例ですが……」

「セドリックさん」

僕は、気になっていたことを聞いた。

「さっき、あの人を鑑定したら、『自身の毒に、侵されている』って出たんです」

セドリックさんの目が、大きく見開かれた。

「……やはり、そうでしたか」

* * *

台所のテーブルで、セドリックさんは、重い口を開いた。

「師の奥様の名前は、エレナさまとおっしゃいました。優しく、明るい方でした。私も、幼い頃、よくお菓子をいただきました」

「その人が、病気で……」

「ええ。当時は、治療法のない、重い病でした。師は、毎晩、研究室にこもって、新しい薬を作ろうとしておられました」

セドリックさんは、古いノートを開いた。

「『黒月の涙』は、もともと、毒ではなかったのです。エレナさまの病の進行を、遅らせるための薬として、師が作りかけていたものでした」

「えっ……」

「けれど、エレナさまは、完成を待たずに、亡くなられた。そのあと、師は、その薬を、自分の手で、毒に作り変えたのだと思います」

ミレイが、小さく息をのんだ。

「どうして、そんなこと……」

「わかりません。自分を責めていたのか、世界を恨んでいたのか。ただ、ひとつだけ言えるのは」

セドリックさんは、ノートの最後のページを、僕たちに見せた。

そこには、震える字で、こう書かれていた。

『私が飲めば、誰も傷つかない』

「師は、毒を、自分で飲んでおられるのです。何年も。少しずつ。……だから、あの方の体は、もう」

「もう、長くない、ってことかい」

ハンナさんが、静かに言った。

セドリックさんは、唇をかんで、うなずいた。

* * *

その夜、僕は、ハンナさんと二人で、縁側に座っていた。

「ばあちゃん。あの人、本当に、陛下に毒を盛ったんでしょうか」

「事実は、そうなんだろうね」

ハンナさんは、お茶をすすった。

「でも、ケン。人は、ひとつの顔だけじゃないよ。毒を盛る人が、同じ手で、子どもに飴をあげることもある。悲しみが深いと、人は、正しい道を、見失うものさ」

「……僕、あの人と、話したいです」

「戦うんじゃなく、かい?」

「はい。僕、前の世界で、追い詰められた人を、何人も見ました。みんな、本当は、誰かに止めてほしかったんだと思うんです」

ハンナさんは、しばらく黙って、僕を見つめていた。

「おまえさんは、不思議な子だね」

「え?」

「若いのに、年寄りみたいな目をしている。……でも、いい目だよ」

ハンナさんは、僕の頭を、ぽんぽんと撫でた。

「やってごらん。ただし、ひとりで抱え込むんじゃないよ。ミレイも、銀牙殿も、伯爵さまも、みんな、おまえさんの味方だ」

胸の奥が、じんわりと温かくなった。

* * *

その夜遅く。

僕は、どうしても寝つけなくて、そっと家を抜け出した。ミレイには、「井戸の様子を見てくる」と書き置きを残してきた。

月明かりの中、村の中央の広場へ向かう。

澄み草の輪は、今夜も、ほんのりと青白く光っていた。

(……よかった。今日も、静かだ)

そう思って、井戸に近づいた、そのときだった。

「……え?」

足が、止まった。

井戸のまわりの澄み草が、全部、真っ黒に染まっていた。

葉も、茎も、根もとまで。昼間は、あんなに青白かったのに。

「そ、そんな……!」

僕は、慌てて井戸に駆け寄り、水面をのぞき込んだ。

月が、水面に映っている。水は、澄んでいる。

(……雑草鑑定。状態鑑定!)

【名称:ミドリ村の井戸水】

【状態:清浄】

【備考:澄み草が、大量の毒を吸収し、浄化した】

「……!」

つまり、こういうことだ。

誰かが、すでに、この井戸に、毒を入れた。それも、大量に。

でも、澄み草が、それを全部、吸い取って、守ってくれたのだ。

「ありがとう……」

僕は、黒く染まった草を、そっと撫でた。

そのとき、井戸の石の縁に、何かが置かれているのに気づいた。

小さな、黒いガラスの小瓶だった。中身は、空っぽだ。

その下には、折りたたまれた紙が、挟まれている。

震える手で、広げた。

『見事だ。

この井戸は、守られた。だが、祭りの夜、水は一本ではない。

――ヴォルフ・グレイ』

僕は、息をのんだ。

(水は、一本ではない……?)

村には、井戸が、ひとつしかないはずだ。

でも、ふと、頭の中に、昼間の光景が浮かんだ。

祭りの広場に並ぶ、大きな水樽。

子どもたちに配る、冷たい夏風茶。

そして、村じゅうの人たちが、祭りの夜に、飲む、水。

「……まさか」

背中を、冷たい汗が、流れ落ちた。

祭りまで、あと四日。

僕は、真っ黒に染まった澄み草のそばに、立ち尽くしたまま、動けなかった。

――第19話へ続く――

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