007⚫️ためらう男とためらわない女
魔界都市の地下、大気の底に溜まった熱気と客の喧騒と狂気とが混ざり合い、異様な振動となってリングを揺らしていた。
ショーン・マッケインは赤コーナーに立ち、静かに自身の’ブレーキ’の感触を確かめていた。対面に立つシャルロット・スターリング、’女神ニケ’と称されるその姿は、あまりにも美しく、そしてあまりにも不吉だった。彼女の瞳の奥で揺らめく’黒い炎’は、リングサイドの照明を吸い込み、周囲の空気を凍てつかせている。
レフリーが歪んだハンディキャップを宣告した。
「無差別級ハンディキャップマッチ。終了時に両者が立っていた場合、勝者はシャルロット。ショーンの勝利条件は、1ラウンド以内での完全なKOのみとする!」
観客席から卑俗な怒号が飛ぶ。
「殺せ、ロッティ! その男をぶちのめせ!」
「ショーン、逃げ回る女を捕まえてみろ!やっちまえ!」
ゴングが鳴った。
先手を取ったのはシャルロットだった。
彼女の動きは、ショーンがこれまで見てきたどのバトラーとも異なっていた。
鋭利な刃物が空を裂くような、一切の躊躇がない踏み込み。
彼女の回し蹴りがショーンの側頭部を襲う。
ショーンはそれを腕で受けたが、衝撃は予想を遥かに超えていた。
’虎の穴’で培われた彼女の筋力は、ヒトというカテゴリーを逸脱している。
ショーンは一歩後退し、冷徹に思考を巡らせた。
1ラウンド以内に仕留めなければ、自分の人生は終わる。
だが、彼女の瞳にあるのは、単なる勝敗への執着ではない。
それは、この世界に対する、そして’男’という存在そのものに対する、深淵からの告発だ。
ショーンは、己の内側にある’遠い何か’へと続く扉に手をかけた。
今まで、人を壊さないために、世界を壊さないために守ってきた境界線。
母の薬代のため、彼はその重い禁忌の鎖を一本ずつ外していく。
ショーンの身体から、熱を帯びた’気’が立ち昇る。
彼の踏み込み一歩で、キャンバスが悲鳴を上げ、リング全体が波打った。
ショーンの正拳突きがシャルロットの顔面を掠める。
風圧だけで、彼女の白い頬が裂け、鮮血が舞った。
シャルロットの瞳に驚愕の色が走る。
だが、彼女は退かなかった。
彼女にとって、この痛みこそが生の実感であり、復讐の証だった。
・・・ああ、そうだ。そうでなくてはならない。
シャルロットは溢れ出す血を舌で拭い、獣のような笑みを浮かべた。
彼女はショーンの懐に飛び込み、膝蹴りを叩き込む。
ショーンの肋骨が軋む音が会場に響いた。
それでも、ショーンは崩れない。驚異的な治癒力が、破壊された組織を瞬時に再構築し始める。
二人の意志が、物理的な衝撃を超えて激突する。
ショーンが己の躊躇いを捨て勝利を掴むのか。それとも、シャルロットがその怨念で相手を屠るのか。
ショーンの拳が、シャルロットの顔面を捉えた。同時に、シャルロットの急所を狙った鋭い蹴りがショーンの股間を襲う。
鈍い音が重なった。
ショーンの拳は、彼女を完璧に破壊する寸前で、わずかにブレーキをかけていた。対して、シャルロットの蹴りは、一点の曇りもなく放たれた。
衝撃の波が会場を支配し、一瞬、静寂が訪れる。リングの中央で、二人の体が交差したまま静止した。
ショーンの顔が苦痛に歪む。だが、彼は倒れなかった。 シャルロットもまた、衝撃で意識を半ば無くしながらも、膝を屈することなくたち続けている。
1ラウンド終了の鐘まで、あと10秒。
この’魔界都市’の闇の中で、二人のバトラーは、まだどちらも自らの存在を放棄していなかった。




