089⚫️困難(つまり愚痴)
彼の妻は脳梗塞を患い、長時間の手術を経て、辛うじて生還した。
だがそれ以来、右半身の不自由さと失語症が二人の日常となった。
感覚は鋭敏になり、音や臭いへのこだわりは一層強まった。
自家用車で出かける際も、妻は道順に強い希望を持つ。
それは彼には到底理解できない、独自のルートだ。
カーナビの示す合理的な道とは異なる方角を、
妻は「あれ」「そこ」、そして指先のわずかな動きで示そうとする。
脳裏には鮮明で正しいイメージがあるはずなのに、
言葉がそれについてこないのだ。
それが彼を深い困惑へと突き落とす。
「あの車、後ろ!」
右折しようとする黒い車か、それとも左折の白い車か。
妻の指先に、強力なレーザーポインタがついているわけではないのだ。
「ガマグチ県立美術館の絵画展に行きたい。」
妻がそう言い出した。それは遠方だった。
飛行機を手配しようとする彼を遮り、妻は主張する。
車で行くのだ。あなたが運転するのだ、と。
丸一日をかけて、彼は助手席に妻を乗せ、ひたすら走った。
もっと早く出発したいという焦りは、妻の準備を待つうちに消え失せた。
サービスエリアでは、名物やグッズを果てしなく時間をかけて選ぶ。
ようやくホテルに着いた頃には、すでに陽は沈んでいた。
翌日、美術館へ向かう際も、妻は徒歩で行くと言い張った。
障害者用の駐車スペースがあると宥めても、聞き入れない。
ミュージアムショップでは、取り憑かれたように何度もレジへ並び、
支払額は膨大なものとなった。
そうして徒歩でホテルへ戻った時、妻は疲労困憊で動けなくなっていた。
変形性膝関節症を患う彼も、相応に疲れ果てていた。
ガマグチ県からの帰路もまた、困難を極めた。
妻はカーナビの経路を断固として拒む。
指示を出し、眠り、食べ、タブレットで漫画を読む。
彼はもはや夫ではなく、
何から何までこなさねばならない執事であり、召使であり、
時に下僕であった。
疲れた。
彼は、出口のない場所へと追い込まれている。
非難と批判を繰り返す妻の傍らで、彼の限界は刻一刻と近づいている。
困難。それは今、極まりつつあった。




