024⚫️現代のテクノロジーが生んだ「神のごとき力」と、それがもたらす幸福の虚実について
’現代の超越者’の存在が示唆するのは、テクノロジーと膨大なデータによって、人類がかつての神に近い全知全能の力を手に入れつつあるという現実だ。創設されたその組織は、情報の点と線をつなぎ、特定のターゲットを排除する「神の目と耳」を権力者に授けた。それは、人類が歴史の中で幾度となく繰り返してきた、既存の理を力で上書きしようとする試行の最新版にほかならない。しかし、どれほど強大な力を持ち、世界の仕組みを自らの思い通りに作り変えたとしても、それがその個人の幸福に結びつくのだろうか。
第一に、すべてを支配し、思い通りに制御できる世界は、生の本質である「驚き」や「偶然」を奪い去る。未来がすべて予測され、予定調和の中に閉じ込められた生は、精巧に設計された監獄に住むのと同義である。不自由や予期せぬ困難があるからこそ、それを乗り越えた瞬間に真の充足が宿るのだ。ハードルのない全能の世界は、ただ退屈という名の虚無を招くだけである。
第二に、他者を支配することは、自らを究極の孤独へと追いやる。他者を意志ある人間ではなく、単なる操作可能なデータや部品として扱うとき、そこには共感も信頼も介在しなくなる。鏡に向かって一人芝居を続ける支配者の境遇は、私たちが求める「幸せな境遇」とは対極にあるものだ。他者との不確定で情的なつながりの中にこそ、安らぎは存在する。
さらに、万物は流転し、因果は応報するという宇宙の理からは、いかなる’神’も逃れられない。テクノロジーによって死を遠ざけ、永遠の王国を築こうとする試みは、変化を拒絶する執着に過ぎない。執着が強ければ強いほど、それが崩れることへの恐怖も増大し、支配者は永遠に安寧を得ることはできない。
結局のところ、幸福とは外部を力ずくで変えることではなく、流転する世界との調和の中に自らの足場を見出すことにある。誰かを支配することに心血を注ぐ’神’の孤独に比べれば、いつか終わると知っている日常の一瞬を噛み締め、手の届く範囲の大切なものと生きていくことの方が、よほど自由で贅沢な境遇ではないか。テクノロジーという巨大な波が世界を上書きしようとしても、個人が抱く絶対評価の幸福までは、決して書き換えることはできないのである。
巨大な宮殿に住んでも、起きて半畳、寝て一畳。
全てが思い通りになるとしたら、それは退屈以外の何ものでもあるまい。
吾唯足知。われ、ただたるをしる。




