第8話「速度だけ、合わせていた」
ライナスのことが、気になり始めた。
この人はアリエスの護衛騎士で、幼い頃から付いているらしい。読んだ話の中でもそう書いてあった。口数が極端に少なくて、感情を顔に出さない。でもいつもアリエスの半歩後ろにいる。
廊下でも、食堂でも、中庭でも。私がどこかに行けば、気づいたらそこにいた。
でも声をかけてこない。何かを聞いてこない。
前に食事に白身魚を足してくれたあの日から、また何日か経った。今度は温かいスープが一杯、朝食に増えていた。「寒い日が続くから」とも言わなかった。ただ置いて、自分の席に戻った。
飲んだ。美味しかった。スープがお腹に染みていくとき、あの部屋で空っぽの冷蔵庫を開けたときのことを思い出しかけて、振り払った。
フィオナがそれを見ていて、「ライナスさん、最近やさしくないですか」と小声で聞いてきた。
「……別に。護衛としての判断だろう」
口がそう返した。アリエスの言い方。
フィオナは「ほんとに?」と笑ったけど、それ以上は追わなかった。
午後、回廊を抜けて厩舎の前を通った。ライナスが半歩後ろについている。足音が自分のと、もう一つ。
柵の向こうから、栗毛の馬が首を伸ばした。私にじゃない。ライナスにだった。ライナスは歩く速度を変えないまま、手の甲で鼻面を一度だけ撫でた。慣れた手つきだった。馬が満足したみたいに鼻を鳴らす。
(この人、馬に好かれてるんだ)
考えてみれば、この人が私の前以外でどう過ごしているのか、何も知らない。読んだ話にも書いていなかった。でも馬は知っている。あの撫で方は、毎日やっている手の動きだった。
少し疲れていたんだと思う。朝から告発関連の視線がきつくて、すれ違うたびに体に力が入る。アリエスの体は平気な顔をしていたけど、私の中はずっと緊張していた。
歩く速度が、少し落ちたかもしれない。
後ろの足音も、少し遅くなった。
気づいて振り返りそうになって、やめた。ライナスは何も言わない。ただ速度を合わせただけ。
廊下の先から、掃除をしている侍女が来た。私たちを見て、慌てて端に寄って頭を下げた。アリエスの体はそのまま通り過ぎる。
でも侍女の手にバケツがあって、重そうだった。水がこぼれかけている。
「……持ち手、逆だ」
声が出ていた。バケツの持ち手が内側に折れていて、水がこぼれやすくなっている。侍女がびくっとして、バケツを見て、持ち手を直した。「あ……ありがとうございます」と小さく言った。
アリエスの体はもう前を向いていた。ライナスが一瞬だけこちらを見た気がしたけど、振り返ったら前を向いていた。
コンビニのお兄さんを思い出した。あの人も何も言わなかった。廃棄のパンをレジ袋に入れて「持ってきな」と言うだけで、名前も聞かなかったし、なんでこんなに痩せてるのとも聞かなかった。
ライナスも言葉がない。
でも、何かが違う。コンビニのお兄さんは、渡すことしかできなかった。ライナスは、ずっと隣にいる。速度を合わせて、食事を増やして、何も言わずに同じ廊下を歩いている。
何が違うのか、まだうまく言えない。でも足音がもう一つあるということが、思ったより——
「……」
考えるのをやめた。アリエスとして、当然のように歩く。
でも胸の奥に、小さな何かが積もっていく。
次話:「一度も、聞かれたことがなかった」




