第7話「ここにいてほしい、なんて」
「アリエス様は、故郷のことを思い出したりしますか」
唐突な質問だった。
中庭のベンチに並んで座っていた。風が吹くと花壇のほうから甘い匂いがする。午後の日差しが暖かくて、フィオナが空を見ながら言った。
「私はたまに思い出すんです。お母さんの作るスープの匂いとか。冬になるとかぼちゃのスープを作ってくれて、それがすっごくおいしくて」
フィオナが目を細めて笑う。本当に好きなんだろう、お母さんのスープが。
「うちは田舎の小さい男爵家で、お城とは全然違うんですけど。私がここに来たのは、お父さんが『せめて都で教養を身につけてこい』って。それでアリエス様のところに付き人として預けられたんです」
フィオナが少し照れたように笑う。
「お父さん、不器用な人なので手紙も全然くれないんですけどね」
笑いながら言っている。寂しそうじゃない。お父さんのことが好きなんだ、と思った。不器用でも手紙をくれなくても、好きでいられるんだ。
「アリエス様のお家にも、そういうのあります?」
(故郷)
あの部屋のことを思い出す。シミのある天井。空っぽの冷蔵庫。通知だけが来るスマホ。
……戻りたくない。それはわかる。
でも、お母さんに会いたくないかって聞かれたら、よくわからない。会いたくないのに、通知が来ると見てしまう自分がいた。
「……思い出さない」
「そうなんですか?」
「帰りたい場所がない」
言ってから、しまったと思った。これはアリエスの言葉じゃない。私の言葉だ。
フィオナがこっちを見ている。驚いた顔をするかと思った。でもしなかった。
「そういう人もいますよね」
静かにそう言った。否定しない。慰めもしない。ただ受け取った。
しばらく黙っていた。風が吹いて、花壇の花びらが何枚か飛んだ。フィオナの巻き毛が揺れている。
「……いいのか」
口が動いた。アリエスの声。でも聞きたかったのは私かもしれない。
「なにがですか?」
「私のそばにいて」
告発の話が広まっている。廊下で目を逸らす人が増えた。フィオナだって聞いているはずだ。
フィオナは首を傾げた。何を当たり前のことを、という顔。
「好きでいるんですから、いいに決まってます」
「……好き」
「はい。アリエス様のこと、好きですよ。だから一緒にいるんです」
あっさり言う。重くない。構えていない。お母さんのスープの話をするのと同じ調子で、好きだと言う。
私は横を向いた。フィオナの顔が見れなかった。
「変なことを言うな」
「変じゃないですよ。本当のことですもん」
フィオナがまた空を見上げた。雲がゆっくり動いている。
「私はアリエス様のこと、ここにいてほしいなと思ってます」
「……」
「故郷じゃなくても、ここが好きになってくれたらいいなって」
口が動かなかった。アリエスの体も、私も、何も返せない。
「ここにいてほしい」なんて、言われたことがない。
お父さんがいた頃は、もしかしたら思ってくれていたのかもしれない。でも言葉で聞いたことはなかった。お母さんには一度もない。学校でも、コンビニでも、どこでも。
「……考えておく」
やっとそれだけ出てきた。アリエスの声だったのか、私の声だったのか、わからなかった。
フィオナが笑った。
ベンチを立って歩き出したとき、背中にまだフィオナの声が残っている気がした。「ここにいてほしい」。あの言葉が、胸のどこかに引っかかって、取れない。
取りたいのか取りたくないのかも、わからなかった。
次話:「速度だけ、合わせていた」




