第55話「生きたい」
夜になった。
廊下を歩かなかった。
最初の夜のことを思う。この世界に来た夜。足の裏の冷たさに驚いて、石の床だと気づいて、天井を見上げた。アリエスだとわかった夜。フィオナが来て「一緒にいますよ」と言った夜。
あの夜から、眠れない夜が続いた。廊下を歩くのがアリエスの習慣だったから私もそうしていた。夜中に目が覚めて廊下に出て、ライナスとすれ違って。そういう夜がたくさんあった。
でも今夜は、ベッドの中にいた。
天蓋を見上げた。白い布がランプの弱い光を受けてぼんやりと光っている。窓のカーテンが夜風でわずかに揺れる。庭木の葉が擦れる音。虫の声がして、遠くで止んだ。
眠れそうだった。
(いつ以来だろう)
本当の意味で眠れそうだと思えるのが。この世界に来てから眠れた夜はあった。疲れて意識が落ちた夜もあった。でも今夜は違う。眠りたいから、眠る。
現実の夜のことを思った。
床が冷たかった。14個のシミがある部屋。窓が小さくて空が見えない。スマホの光だけがあった。何日も、何も食べていなかった。
あの夜、アリエスの話を読んでいた。廊下を一人で歩く悪役令嬢の話を。フィオナが「ここにいてほしい」と言って、アリエスが何も返せないシーンを読んでいた。他人事じゃなかったから、好きだった。
(あの夜の私は)
まさか自分がアリエスになるなんて、思っていなかった。
でも今、ここにいる。
ベッドがある。羽毛の掛け布団が首元まであって、冷えていない。窓を少し開けると庭の薔薇の匂いが混じった風が入ってくる。
フィオナがいる。ライナスがいる。アルヴァンがいる。
明日の朝、ごはんがある。
(明日も)
そう思うと、胸の奥に何かが積もっていった。熱くない。痛くない。でも重くて、ほどけない。名前をつけられなかった。嬉しいとも違う。安心とも違う。もっとずっと手前にある、もっと静かなもの。
三枝ひかりは、明日の朝ごはんを楽しみにできる子じゃなかった。明日が来ることを怖いとも嬉しいとも思えなかった。続くものとして、やり過ごすしかなかった。
今は、楽しみだと思う。
パンが温かいこと。ライナスが何かを増やすかもしれないこと。フィオナが「おはようございます」と言うこと。アルヴァンが遠くで茶を飲んでいること。
私はアリエスが好きだった。好きだったあの子として、ここにいる。でも今は重くなかった。いつからかわからない。食卓に席があることに慣れたとき、かもしれない。フィオナの前で泣けたとき、かもしれない。怒れたとき、かもしれない。
アリエスとして生きた時間が、全部、私の中にある。借り物じゃない。私が歩いて、食べて、泣いて、怒って、笑った時間だった。
(私は、ここにいる)
アリエスとして。でも、私として。
生きたい。
ふいに、その言葉が、言葉のかたちのまま胸に浮かんだ。いつかの朝、「この朝が、続けばいい」と思ったとき、まだ言えなかったかたち。今は、こわくない。明日が来てほしい。明日の朝ごはんを、食べたい。
目を閉じた。
眠りが来た。ゆっくりと、静かに。
あの夜の床の冷たさが遠くなっていった。スマホの光も遠くなっていく。天蓋の白い布が暗くなっていった。マットレスの柔らかさと、掛け布団の重さだけが残った。
夢は見なかった。
ただ、眠った。
明日の朝ごはんのことを、最後に思いながら。
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