第54話「座ってください、のひとこと」
夕食の時間だった。
食堂に入ると、全員がいた。テーブルの上にパンと肉料理と野菜が並んでいる。窓の外に夕暮れの光が入っていた。橙色の光がテーブルクロスの皺に沿って伸びている。
フィオナが隣に座った。ライナスが半歩後ろに立っていた。遠くにアルヴァンがいた。
「ライナス」
私が言った。ライナスが少し目を上げる。
「座ったらどうですか」
自分でも珍しいことを言ったとわかっていた。ライナスも驚いた顔で、眉がわずかに動いた。
「……座ってください」
しばらく私を見た。それから静かに、テーブルの端の席に腰を下ろした。
フィオナが「わあ」と言った。「ライナスさんが座った」
「……黙れ」
「ひどい!」
アルヴァンが遠くで茶を飲んでいた。口元がわずかに動いた気がした。笑ったかどうかはわからない。
食事を取った。温かかった。
今日のことが頭に残っている。ヴァネッサの笑顔。フィオナに向けられた言葉。そのとき自分の口から出てきた声。
計算はしていない。台本がないということは、計算の根拠がないということだ。だから思ったことを言った。結果がどうなるかは、わからないまま。でも言った。
(よかったのかな)
フィオナを見る。パンにバターを塗りながら「今日のお肉、やわらかいですね」と言っていた。いつも通りの声だった。
(よかったのかもしれない)
「アリエス」
アルヴァンが言った。遠くから低い声で。
「なんですか」
「今日の件」
「……はい」
「よかった」
それだけ言って、また茶に戻った。
以前の私なら、その言葉を処理しようとしていた。台本の範囲内か、アリエスとして受け取っていいか。でも今は、ただそのままに置いた。よかった、と言ってもらえた。
「ライナス」
フィオナがライナスに話しかけた。「何か飲みますか。お茶、持ってきますよ」
「……結構です」
「遠慮しないでください」
「……では」
フィオナが立ち上がり厨房の方へ向かった。ライナスがその背中を目で追って、私を見る。何も言わない。でも見ていた。
(この人は)
最初から守ってくれていた。何も言わずに一皿増やして、歩く速度を合わせて、廊下に立って。
「ライナス」
「はい」
「あなたは、ずっとそうしてくれていたんですね」
少し間を置いた。
「……職務です」
「職務だけですか」
言ってから止まった。でも続けた。
「ありがとうございました」
ライナスが私を見た。静かな目だった。感情がないのではなく、感情を外に運ばない目。しばらくして、頭を少し下げた。
フィオナが茶を持って戻ってきた。ライナスの前に置く。「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
ライナスが言った。フィオナが「えっ」と声を上げた。
「ライナスさんがありがとうって言った!」
「……言わないのか」
「言います言います! びっくりしただけです!」
アルヴァンが「うるさい」と言った。フィオナが「失礼な!」と返した。
私はその声を聞いていた。
(この人たちが、いる)
うるさくて、黙っていて、遠くから見ている。それが今の当たり前だった。現実では一度もなかった当たり前だった。
アリエスとして来た。台本を守るためにアリエスだった。台本がなくなって、ここにいた。もうアリエスか三枝ひかりか、区別する必要はない。ここで笑ったのは私だし、泣いたのも怒ったのも私。アリエスとして経験したことが全部、私のものになっていた。
いてもいい、と思う。ここのごはんを食べていい。泣いてもいい。怒ってもいい。怒った日の夜にも、夕食は温かい。
三枝ひかりとして、いていい場所に、私は座っている。
窓の外の夕暮れが、少しずつ暗くなっていく。食堂のランプが橙色に揺れている。
「アリエス、デザートいりますか」
フィオナが聞いた。
「……もらいます」
「はーい」
フィオナが立ち上がった。ライナスが少し席を寄せる。アルヴァンは黙っていた。
次話:「生きたい」




