第53話「アリエスじゃない声」
午後の接見室に、ヴァネッサがいた。
社交の場だった。いくつかの令嬢が集まって茶を飲んでいて、私がフィオナとその部屋に入ったとき、ヴァネッサが先に来ていた。
目が合った。ヴァネッサが微笑んだ。温度のない笑顔。唇の形だけが整っていて、目が動いていない。
(この人は、まだ続けるつもりだ)
断罪が終わってからヴァネッサとの間に直接の衝突はなかった。廊下で会って視線を交わすだけだった。でも今日は場所が違う。人がいた。
審問の話は、もう城中に広まっている。ハイデン侯爵家は関与を認めず、すべては娘の独断だったと——あの家は、本当にそれで通すらしい。社交の席でヴァネッサを見るのは、これが最後になるかもしれないと囁く人もいた。
それでも、この人は今日ここに来て、完璧な笑顔で座っている。
「フィオナ様」
ヴァネッサが、私ではなくフィオナに声をかけた。
「最近、アリエス様とよく一緒にいらっしゃるとか。ご熱心で」
「はい、仲良くしていただいています」
フィオナが屈託なく答えた。ヴァネッサの笑顔が少し深くなった。
「ご熱心なことね。でも——あの断罪の件も、まだ噂が続いていますでしょう。フィオナ様ほどのお家柄でしたら、もう少し、お付き合いを選ばれた方が……」
私の中で何かが動いた。
(アリエスなら)
冷たく、計算された言葉で返す。それが以前のやり方だった。台本があったころは、そうしていた。
でも台本はない。そして今は、計算ではなく——ただ、嫌だった。フィオナが私のせいで引き離されること。この子の判断を他人に否定されること。
口を開いた。
「ヴァネッサ様」
室内の話し声が、ふっと途切れた。私の声が低かった。計算していなかった。出てきた声だった。
「フィオナが誰と過ごすかは、フィオナが決めることです」
「まあ——」
「フィオナの判断を、あなたが心配される必要はありません」
ヴァネッサの笑顔がわずかに固まった。
「アリエス様のためを思って——」
「ありがとうございます」
続けた。
「でもフィオナは、私のためを思って側にいるのではなく、自分がそうしたいからいます。あなたがそれを心配しているなら、フィオナ本人に聞いてみてください。私ではなく、フィオナに」
穏やかな声だった。怒鳴らなかった。アリエスの冷たさとも違う。思ったことを、そのまま言った。
室内にしばらく声がなかった。フィオナが隣で小さく息を吸う音がした。
ヴァネッサの顔から、一瞬、表情が落ちた。
完璧な笑顔の下から、何かが覗いた。怒りじゃなかった。もっと幼い、置き去りにされたような顔。すぐに消えた。気のせいだと言われたら、そうかもしれないと答えるしかない速さで。
ヴァネッサがゆっくりと笑った。でも今度の笑顔はうまくいっていなかった。唇が形を作ろうとして、微かに震えている。
「……そうですわね。失礼しました」
立ち上がって礼をし、去っていった。付き人が続いた。
去っていく背中は、まっすぐだった。鏡の前で何年もかけて作り上げたみたいな、隙のない背中。
(あの人が「自分で決めた」ことは、あったんだろうか)
ふと、そう思った。フィオナが決めること——私がそう言ったとき、あの人の顔から落ちたもの。確かめる方法はない。でも、廊下で見た、白くなるほど握りしめられた指を思い出した。
残った令嬢たちが互いに視線を交わしていた。私は前を向いたまま席に座った。
フィオナが隣に座った。しばらく何も言わなかった。
「……アリエス」
様なし。名前だけで呼んだ。
「さっきの、ありがとうございました」
「……余計なことを言いました」
「余計じゃないです」
フィオナの声は静かだった。
(台本じゃなかった)
さっきの言葉はアリエスの台詞じゃない。計算もない。フィオナを守りたかった——その気持ちだけで声が出ていた。怒りはあった。でも怒鳴る怒りじゃなくて、静かな怒り。それが声になって、外に出て、相手に届いた。
窓の外に午後の光があった。
(守れた)
フィオナのそばにいていいと言えた。
「アリエス、顔が赤いですよ」
フィオナが小さく言った。
「……怒っていたので」
「怒ってたんですね」
「……はい」
「はじめて、怒ってるの見ました」
「そうですか」
「かっこよかったです」
返事はしなかった。でも耳が少し熱かった。茶のカップを手に取ると、手が少しだけ震えていた。フィオナはそれを見て、何も言わなかった。
次話:「座ってください、のひとこと」




