エピローグ「明日も、朝ごはんがある」
深夜、真白は机の前にいた。
テキストファイルの最後の行を読み終えた。パソコンの画面が光っている。外は静かで、雨は止んでいた。窓ガラスの向こうに街の灯りが見えた。画面に表示されたファイルが暗い部屋の中に浮いている。半年以上、開くことのできなかったファイルだった。
アリエスが眠っていた。白い天蓋の下で目を閉じている。廊下を歩く必要がない夜だった。明日の朝ごはんのことを考えながら眠りに落ちていた。それが、最後のページに書いてあった。
真白はその最後の行を読んだ。
スクロールを止めた。画面の末尾に辿り着いている。目の奥にまだ文字の残像があった。
半年以上前、書けなくなって止まった。アリエスが「自分は悪くない」と声を上げるシーン。書こうとすると息ができなくなる。悪役令嬢が声を上げることは、真白自身が声を上げることだった。母が正しい、自分が間違っている——そう思い続けることで保っていたものが、アリエスを通して崩れかけて、だから止めた。
でも——
アリエスは生きていた。
誰かが続きを書いた。アリエスは断罪を乗り越えて、フィオナに名前を呼ばれて、ライナスの一皿を受け取って、アルヴァンの言葉を胸に置いた。怒れる日を迎えて、眠れる夜を迎えた。
(私が書けなかった物語を)
誰かが、紡いだ。
その「誰か」が何者なのか真白にはわからなかった。自分が書いた文章じゃない。でもアリエスの声で書かれていた。真白が作った器の中で、真白の知らない誰かが生きていた。朝ごはんを食べることを安心と思うアリエス。怒りをはじめて声にするアリエス。眠れる夜に明日を楽しみにするアリエス。
それは——真白が書きたくて書けなかったアリエスだった。
ファイルの末尾に、空白の行が残っていた。ほんの少し。一行分か、二行分。カーソルが点滅している。
真白はキーボードに指を置いた。
何を書こうとしているのか自分でもわからなかった。でも手が動いた。文字が画面に現れた。
最後の一行を書いた。
——明日も、朝ごはんがある。
手を止めた。しばらくその一行を見ていた。
涙が来た。声は出なかった。でも止まらなかった。キーボードに一滴落ちて、画面がにじんだ。
こんな最後を書いてあげたかった。ずっと前から。でも書けなかった。アリエスに「いてもいい」と言わせることが、自分に「いてもいい」と言うことだと気づいていたから。
それを、今夜、書けた。
泣き止んだとき、外が少しだけ明るくなっていた。夜明けが近かった。
真白はブラウザを開いた。
なろうのページ。「私が書き終えた、大好きな悪役令嬢の話」。秋から、自分の覚えのない更新が続いてきたページ。その続きに、最後の一話を、今度は自分の手で載せる。
ファイルを見ながら打ち込んだ。話数とタイトルを確認した。それから投稿した。画面が変わった。
真白はしばらく画面を見ていた。それから机に突っ伏した。
机の影が、少しずつ薄れていった。
◇
朔はシフトが終わって、駐車場に出た。
冬の朝だった。息が白い。街灯がまだ点いている。東の空が、ほんの少しだけ白くなっている。空気が冷たくて耳が痛かった。自転車のサドルに霜が降りていた。手で払うと、指先が濡れて冷えた。
スマホを開いた。
更新があった。
「私が書き終えた、大好きな悪役令嬢の話」。最終話が更新されていた。
サドルに跨がったまま、読み始めた。
アリエスが眠っていた。廊下を歩かなかった夜。天蓋の下で目を閉じていた。明日の朝ごはんのことを考えながら、眠りに落ちていた。最後の一行を読んだ。
明日も、朝ごはんがある。
指が止まった。
駐車場の街灯が白い。風はなかった。耳が痛かった。でも動けなかった。
(あの子も)
読んでるかな。どこかで。
あの子。夕方になると来ていた子。中学の頃から顔を知っていた。いつも同じ時間に来て、雑誌コーナーの端に立っていた。何も買わない。立ち読みだけして帰る。廃棄のパンを渡したとき少しだけ顔が上がった。目が合った。
「ありがとうございます」
それだけ言って帰っていく子だった。いつも同じ。声が小さくて、笑わなくて、怒りもしない。やせていた。それだけは、見ていた。
あの子が来なくなって、7ヶ月以上が経った。
今夜のシフトの途中、ふと雑誌コーナーを見た。蛍光灯の下、誰も立っていない床のタイル。あの子がいつも立っていた場所は、今も空いている。誰かが埋めることもないまま、ずっと。
廃棄のパンを袋に入れる癖は、まだ抜けない。今夜も一つ、袋に入れて、手が止まった。渡す相手は——
(もう、来ないのかもしれない)
初めて、その言葉を最後まで思った。いつもは途中でやめていた。考えないことで、まだ来る可能性を残しているつもりだった。でも来ない。7ヶ月、一度も。あんなに痩せていて、あんなに顔色が悪くて、夏なのに長袖で——俺は、知っていたのに。
袋に入れたパンを、そのまま買い取った。レジを自分で打って、小銭を入れた。理由は自分でもわからない。捨てたく、なかった。
あの子もこの話を読んでいたんだろうか。アリエスを好きだったんだろうか。アリエスが友だちの前で泣いた話を読んで、あの子も泣けたんだろうか。隣に座ってくれる誰かが、あの子にもいたんだろうか。
いなかった。たぶん、いなかった。俺はパンを渡すだけで、隣に座らなかった。
それでも——いなくなったとは、思いたくない。
この話の最後にこう書いてあった。
明日も、朝ごはんがある。
朔はコメント欄を開いた。
今度は指が動いた。
いつも開いては閉じた。言葉が見つからない。何を書いても足りない。でも今朝は、足りなくても書いていいと思った。足りないまま、届けていい。
最後まで読みました。きっと、この終わり方が幸せなんだと思います。この物語が好きな人がいます。その人もきっと読んでいると思います
消さなかった。
送った。
画面を閉じた。
自転車を漕ぎ始めた。ペダルが重い。向かい風で目が細くなる。信号が変わって止まった。止まったまま、少しだけ泣いた。
物語のためじゃなかった。たぶん、あの子のためだった。かごの中で、買い取ったパンが袋ごと揺れていた。
声はなかった。ただ涙が来た。耳が痛い。空が明るかった。
信号が変わった。また漕ぎ始めた。
◇
真白は机で眠っていた。
コメントの通知音で目を覚ました。
窓の外が明るかった。カーテン越しに朝が透けている。机の上のパソコンがスリープから覚めていた。画面に最後の行が見えた。真白が書いた一行がそこにある。
明日も、朝ごはんがある。
スマホを取ってコメントを開いた。
ユーザー名だけの、知らない読者だった。コメントは一件。
最後まで読みました。きっと、この終わり方が幸せなんだと思います。この物語が好きな人がいます。その人もきっと読んでいると思います
真白は画面を見つめた。
最後まで読んだ人がいた。この終わり方が幸せだと、思ってくれた人がいた。
そして「その人」がいる。この物語を好きな誰かが、どこかにいて、この人はその人のことを思ってコメントを書いた。
真白は窓を見た。カーテンの隙間から白い線が差して、画面の上を横切っている。
自分が書いて、自分が止めて、知らない誰かが続きを生きて、それを読んだ人がいて、その人がまた別の誰かのことを思っている。繋がっている。知らないまま、繋がっている。
「アリエスのこと、忘れないでいてください」
ずっと前に自分が書いたコメントのことを思い出した。誰に届くかわからなくて、でも書きたかった一行。
今、自分がその言葉を受け取る側になっていた。
泣いていた。気づかなかったが、泣いていた。頬が濡れていた。
画面に朝の色が重なってきた。部屋が明るくなっていく。ファイルの末尾。最後の一行。
明日も、朝ごはんがある。
真白はその一行をもう一度読んだ。
窓の外で鳥が鳴いた。朝が来ていた。




