第51話「書けなかった一行が、そこにいる」
コンビニのおにぎりを、袋から出した。
夕食だった。真白はテーブルの端にそれを置いて、ノートパソコンを開いた。最近は、夜になるとまずファイルを開く。抵抗するのはやめていた。読みたいから、読む。それだけのことに、何ヶ月もかかった。
今夜も、増えていた。
画面をスクロールする。アリエスが夢を見ている。壁の向こうの声。開かないドア。朝の庭。香草畑で、友人に向かって話し始める。
ごはんがなかったのは、私が悪い子だからだって——
真白の手が止まった。
おにぎりのフィルムを剥がしかけたまま、目だけが文字を追っていく。理由を探して、探して、最後は自分を理由にした子。読みながら、喉の奥が狭くなった。この感覚を知っている。理由があるなら、まだ耐えられる。自分が悪いという理由なら、直せる希望があることになる。だから子どもは、自分を犯人にする。
スクロールした。
そして、その一行があった。
「私は、悪くなかった」
息が止まった。
——これだ。
これは、私がアリエスに言わせようとした言葉だった。半年以上前。断罪の場で、すべてを奪われながら、それでも顔を上げて言う台詞として書こうとした。キーボードに指を置いて、最初の一文字の手前で、手が震えた。出てきたのは自分の声だった。母の前で一度も言えなかった声。あの夜から、全部が止まった。
でも、違う。
画面の中のこの言葉は、私が書こうとしたものと、形が同じで、中身が違った。
私が書こうとした「私は悪くない」は、誰かへの反論だった。断罪する人たちに向かって投げる言葉として設計した。強いアリエスなら言えるはずの言葉として。
この子のは、違う。誰にも投げていない。香草畑で、湯気と土の匂いの中で、過去の自分に言い渡している。お前は悪くなかった、と。判決だった。たぶん、世界でいちばん小さくて、いちばん難しい判決。
(だから、書けなかったんだ)
わかってしまった。
私はあの言葉を、戦いの台詞だと思っていた。違った。あれは、自分に出す無罪だった。自分に無罪を出したことのない人間に、書けるはずがなかった。
口の中で、動かしてみた。
「私は——」
声が続かなかった。喉の奥で、何かが閉まっている。母の顔が浮かぶ。成績表。100点じゃなかった日。100点だった日。どっちの日も、言えなかった。
ふと、自分が書いた三行を思い出した。何ヶ月も止まったあとで、雨の帰り道のあとにやっと書けた三行。
『アリエスは口を開いた。言葉はまだ出なかった。でも唇が動いた。』
——今の私だ。
画面の光の中で、真白は少しだけ笑った。泣くかと思ったのに、出てきたのは笑いだった。小さくて、掠れた、でも確かに笑い声だった。
あの三行を書いたとき、私は予言を書いていたのかもしれない。アリエスのことだと思って、自分のことを。
おにぎりを食べた。
海苔が湿気て、米が少し硬かった。それでも、味がした。塩の味と、米の甘さ。いつ以来か思い出せないくらい、ちゃんと味がした。
食べ終えて、画面の一行をもう一度読んだ。
「私は、悪くなかった」
口の中で、もう一度だけ動かしてみる。声には、ならなかった。
それでも、唇は動いた。
次話:「カーテンを開けた朝」




