表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私が書き終えた、大好きな悪役令嬢の話  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
51/57

第50話「理由がなくても、皿は並ぶ」

夢を見た。


暗い部屋だった。窓がなかった。どこかで母親が話している。壁の向こうの声。外用の声だった。「大変なのに頑張ってる」と誰かに言われて、「そうなんです、本当に」と笑っている。


その声を、薄い壁越しに聞き続けていた。お腹が空いていた。声は聞こえるのに、ドアは開かなかった。


目が覚めた。


天蓋がある。カーテンの向こうが明るい。鳥の声。窓が開いていて、朝の空気が汗ばんだ首筋に触れた。


(夢だった)


でも夢じゃなかった。あったことだった。


起き上がって、窓の外を見た。庭に朝の光が落ちている。露がまだ残っていて、草の先で小さく光っている。


……お母さんのこと、考えている。


前は考えないようにしていた。思い出すと胸がぐちゃぐちゃになるから。でも最近、ぐちゃぐちゃの中身が少しだけ見えるようになった。


怒っている。それはもうわかっている。


でも今朝は、怒りの隣に別のものがあった。


あの人は、なんであんなふうになったんだろう。


お父さんがいた頃の記憶がある。薄いけど、ある。テーブルに私のお皿が並んでいた。お母さんが何か作っていた。何を作っていたかは覚えていない。でも台所に立っていた。


お父さんがいなくなってから、台所に立たなくなった。


お母さんも、壊れていたのかもしれない。


そう考えた瞬間、胸のどこかが軋んだ。許したいわけじゃない。許せない。ごはんを作らなかったこと、帰ってこなかったこと、私のことを見なかったこと。全部おかしかった。子どもにそういうことをしてはいけなかった。


でも——おかしかったのは、あの人だけのせいなのか。


わからない。わからないけど、考えている。前は考えることすらできなかった。自分のことで精一杯だったから。


ただ、考えはいつも、最後に同じ場所へ戻ってくる。


あの頃、いつも思っていたことがある。誰にも言ったことがない。


——私が悪い子だから、こうなんだ。


ごはんがないのも、お母さんが帰ってこないのも、誰も私を見ないのも。私に何かが足りないから。いい子じゃないから。理由を探して、探して、どこにも見つからなくて——最後は、自分を理由にした。私が悪い。そう思えば、少なくとも理由はあることになるから。


着替えて、廊下に出た。足が重かった。


食堂の手前で、フィオナに会った。先に出てきたらしい。私の顔を見て、何かを察した顔になる。


「アリエス、おはようございます」


「……おはよう、ございます」


「少し、歩きません? 朝ごはんの前に」


フィオナは何も聞かずに歩き出した。ついていく。厨房の裏手を抜けると、小さな庭に出た。来たことのない場所だった。畑みたいな一角に香草が植わっていて、朝の土の匂いがする。厨房の窓から湯気が立っていた。


「ここ、たまに来るんです。マリーさんの香草畑」


フィオナが屈んで、葉を一枚つまんで匂いを嗅いだ。私は突っ立ったまま、それを見ていた。


言うつもりはなかった。でも、口が動いた。


「……フィオナ。私、ずっと思ってたことがあるんです」


「はい」


「ごはんがなかったのは、私が悪い子だからだって」


フィオナの手が止まった。


「見てもらえなかったのも、邪魔にされたのも、ぜんぶ私に何か足りないからだって。ずっとそう思ってた。そう思うしかなかった。だって、そうじゃなかったら——理由が、なくなるから」


フィオナはゆっくり立ち上がった。何も言わない。今日は泣かないで、聞いていてくれている。


「でも、ここに来て」


声が震えた。止めなかった。


「毎朝、ごはんが出てきた。私、何もしてないのに。いい子にしてたからじゃない。役に立ったからでもない。ただ席に座っただけで、スープが置かれて、皿が増えて」


ライナスの一皿。フィオナの半分こ。アルヴァンの「食事は取れているか」。


「わかっちゃったんです。子どもがそこにいるだけで、ごはんが出てくる場所は、ほんとうにあるんだって。理由なんかなくても、皿は並ぶんだって」


息を吸った。朝の空気が冷たくて、土と香草の匂いがした。


「だったら、あの部屋にごはんがなかったのは——私のせいじゃ、なかった」


言えた。


「私は、悪くなかった」


声に出したら、世界が割れるかと思った。何も割れなかった。鳥が鳴いていて、厨房の湯気が上がっていて、フィオナがそこに立っていた。


「はい」


フィオナが言った。


前に、夜の廊下でライナスが、「なんでもない」という私の嘘を「はい」のひとことで受け取ってくれたことがある。今日のフィオナの「はい」は、嘘じゃないほうを受け取った音がした。


フィオナがふにゃっと笑った。えくぼが出た。目のふちが少し赤かったけど、泣かなかった。


「朝ごはん、行きましょう。今日のスープ、たぶん豆です」


歩き出したフィオナの後ろを、ついていった。


アリエスは、守ろうとしたことを、傷つけたことにされていた。私は——何もされなかったことを、自分のしわざにしていた。


どっちも、まちがいだった。


厨房の角を曲がるとき、香草の匂いがもう一度した。胸の奥に、軽いとも重いともつかない、初めての感じがある。さっきの自分の声が、まだ耳の奥に残っていた。


私は、悪くなかった。


二回目は、声に出さなくても言えた。


次話:「書けなかった一行が、そこにいる」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ