第50話「理由がなくても、皿は並ぶ」
夢を見た。
暗い部屋だった。窓がなかった。どこかで母親が話している。壁の向こうの声。外用の声だった。「大変なのに頑張ってる」と誰かに言われて、「そうなんです、本当に」と笑っている。
その声を、薄い壁越しに聞き続けていた。お腹が空いていた。声は聞こえるのに、ドアは開かなかった。
目が覚めた。
天蓋がある。カーテンの向こうが明るい。鳥の声。窓が開いていて、朝の空気が汗ばんだ首筋に触れた。
(夢だった)
でも夢じゃなかった。あったことだった。
起き上がって、窓の外を見た。庭に朝の光が落ちている。露がまだ残っていて、草の先で小さく光っている。
……お母さんのこと、考えている。
前は考えないようにしていた。思い出すと胸がぐちゃぐちゃになるから。でも最近、ぐちゃぐちゃの中身が少しだけ見えるようになった。
怒っている。それはもうわかっている。
でも今朝は、怒りの隣に別のものがあった。
あの人は、なんであんなふうになったんだろう。
お父さんがいた頃の記憶がある。薄いけど、ある。テーブルに私のお皿が並んでいた。お母さんが何か作っていた。何を作っていたかは覚えていない。でも台所に立っていた。
お父さんがいなくなってから、台所に立たなくなった。
お母さんも、壊れていたのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸のどこかが軋んだ。許したいわけじゃない。許せない。ごはんを作らなかったこと、帰ってこなかったこと、私のことを見なかったこと。全部おかしかった。子どもにそういうことをしてはいけなかった。
でも——おかしかったのは、あの人だけのせいなのか。
わからない。わからないけど、考えている。前は考えることすらできなかった。自分のことで精一杯だったから。
ただ、考えはいつも、最後に同じ場所へ戻ってくる。
あの頃、いつも思っていたことがある。誰にも言ったことがない。
——私が悪い子だから、こうなんだ。
ごはんがないのも、お母さんが帰ってこないのも、誰も私を見ないのも。私に何かが足りないから。いい子じゃないから。理由を探して、探して、どこにも見つからなくて——最後は、自分を理由にした。私が悪い。そう思えば、少なくとも理由はあることになるから。
着替えて、廊下に出た。足が重かった。
食堂の手前で、フィオナに会った。先に出てきたらしい。私の顔を見て、何かを察した顔になる。
「アリエス、おはようございます」
「……おはよう、ございます」
「少し、歩きません? 朝ごはんの前に」
フィオナは何も聞かずに歩き出した。ついていく。厨房の裏手を抜けると、小さな庭に出た。来たことのない場所だった。畑みたいな一角に香草が植わっていて、朝の土の匂いがする。厨房の窓から湯気が立っていた。
「ここ、たまに来るんです。マリーさんの香草畑」
フィオナが屈んで、葉を一枚つまんで匂いを嗅いだ。私は突っ立ったまま、それを見ていた。
言うつもりはなかった。でも、口が動いた。
「……フィオナ。私、ずっと思ってたことがあるんです」
「はい」
「ごはんがなかったのは、私が悪い子だからだって」
フィオナの手が止まった。
「見てもらえなかったのも、邪魔にされたのも、ぜんぶ私に何か足りないからだって。ずっとそう思ってた。そう思うしかなかった。だって、そうじゃなかったら——理由が、なくなるから」
フィオナはゆっくり立ち上がった。何も言わない。今日は泣かないで、聞いていてくれている。
「でも、ここに来て」
声が震えた。止めなかった。
「毎朝、ごはんが出てきた。私、何もしてないのに。いい子にしてたからじゃない。役に立ったからでもない。ただ席に座っただけで、スープが置かれて、皿が増えて」
ライナスの一皿。フィオナの半分こ。アルヴァンの「食事は取れているか」。
「わかっちゃったんです。子どもがそこにいるだけで、ごはんが出てくる場所は、ほんとうにあるんだって。理由なんかなくても、皿は並ぶんだって」
息を吸った。朝の空気が冷たくて、土と香草の匂いがした。
「だったら、あの部屋にごはんがなかったのは——私のせいじゃ、なかった」
言えた。
「私は、悪くなかった」
声に出したら、世界が割れるかと思った。何も割れなかった。鳥が鳴いていて、厨房の湯気が上がっていて、フィオナがそこに立っていた。
「はい」
フィオナが言った。
前に、夜の廊下でライナスが、「なんでもない」という私の嘘を「はい」のひとことで受け取ってくれたことがある。今日のフィオナの「はい」は、嘘じゃないほうを受け取った音がした。
フィオナがふにゃっと笑った。えくぼが出た。目のふちが少し赤かったけど、泣かなかった。
「朝ごはん、行きましょう。今日のスープ、たぶん豆です」
歩き出したフィオナの後ろを、ついていった。
アリエスは、守ろうとしたことを、傷つけたことにされていた。私は——何もされなかったことを、自分のしわざにしていた。
どっちも、まちがいだった。
厨房の角を曲がるとき、香草の匂いがもう一度した。胸の奥に、軽いとも重いともつかない、初めての感じがある。さっきの自分の声が、まだ耳の奥に残っていた。
私は、悪くなかった。
二回目は、声に出さなくても言えた。
次話:「書けなかった一行が、そこにいる」




