第49話「先に泣いたのはフィオナ」
フィオナと、中庭のベンチに座っていた。
午後の柔らかい光。雲がゆっくり動いている。花壇のラベンダーが揺れて、風のたびに匂いが届く。フィオナは膝の上で何かを折っていた。紙を三角に、また三角に。しばらく何も話さなかった。
「アリエス」
「……なんですか」
フィオナが折っていた手を止めて、少し考える顔をした。
「昔、怖かったことって、ありますか」
(怖かったこと)
台本を探した。ない。アリエスとしての正解もない。
でも答えが出てきた。台本からではなく、体の奥から。
「……家に、帰りたくなかった」
フィオナが紙を膝に置いた。「どんなところだったんですか」と聞く。急かさない。声に力が入っていない。ただ聞いている。
「いてもいい場所じゃなかった。帰っても、私の場所がなかった。いるのに、いない感じがした」
「うん」
小さく頷いた。続きを促すのでも慰めるのでもない。でもその「うん」が、次の言葉を引き出した。
「ごはんが、ない日があった。声を聞くのが怖かった。毎日、自分がそこにいることが邪魔なんだって思って過ごしてた」
話しながら、声が変わっていくのに気づけなかった。アリエスの声でもなかった。三枝ひかりの声——かもしれない。どちらでもある、一つの声で話していた。
「誰かに必要とされたことが、なかった気がする」
言い終わって、フィオナの顔を見た。
泣いていた。
私じゃなくて、フィオナが泣いていた。
「なんで——なんでそんな——」
声がぐちゃぐちゃだった。目も鼻も全部赤くなっていて、涙が止まらなくて、言葉がまとまっていない。フィオナの泣き方だった。隠せない。抑えられない。感じたことが全部そのまま顔に出る。
「ひどい——それ、ひどいです——」
ベンチの上で膝に置いていた折り紙がくしゃっと潰れた。握りしめている。
(あ)
喉の奥から何かが来た。フィオナがこんなに泣いている。私の話を聞いて。私のために。
止められなかった。声が出る。肩が揺れた。フィオナが泣きながら体を寄せてきて、肩に手を置いた。手のひらの体温が、布越しに伝わる。
泣いた。
どのくらい経ったのかわからない。風が来てラベンダーの匂いが濃くなった。フィオナの手はずっとそこにあった。動かなかった。重くもなく軽くもなく、ただあった。
声が止まった。深く息を吸う。鼻の奥がつんとして、空気が冷たかった。
「……ありがとう」
「うん」
何も足さなかった。
中庭に光が戻った。雲が流れて花壇が明るくなる。フィオナが膝の上の紙を拾って、また折り始めた。指が動いていく。鶴の形になりかけている。
私はその手を見ていた。さっきまで泣いていた目で。
(先に泣いてくれた)
私が泣いていいのかわからなかったのに、フィオナが先に泣いた。だから泣けた。
フィオナの折り鶴は、少し形が歪んでいた。手が震えていたのかもしれない。
次話:「理由がなくても、皿は並ぶ」




