第47話「それでも崩れない」
朝、侍女が部屋に入ってきた。
カーテンを引く手つきが丁寧で、布が擦れる音がした。光が入る。窓の外から花の匂いが混じった空気が届いて、頬に触れた。
「おはようございます、アリエス様。お着替えのご準備ができております」
体が固まった。
違う。侍女の声だった。優しい声だった。でも一瞬、別の声が重なった。
——ひかり、いるんでしょ。
母親の声。何かを頼むときだけ名前を呼ぶ声。スマホ持ってきて。買い物行って。うるさいから静かにして。用事が終わると、名前ごと消える。
侍女が首を傾げた。「アリエス様?」
「……ええ。なんでもありません」
着替えた。鏡の前に立つと、アリエスの顔がある。黒い髪、切れ長の目。この顔にはもう慣れた。自分の顔だった。でも今朝は、鏡の中の目が少し揺れているように見えて、離せなかった。
(なんで今になって)
わからない。最近、何かが変わっていた。フィオナの前で泣けて、ライナスの守るものに入って、アルヴァンが見てくれていて——台本の外で、自分の足で立っている。
安心したから、来たのかもしれない。押し込んでいたものの蓋が、怖いときではなく、安心したときにずれ始める。そういうことが、あるみたいだった。
侍女が下がって、部屋に一人になった。
窓の外に庭が見える。ローズマリーの茂みに蜂が一匹来ていて、花から花へ渡っている。庭木の影が地面に落ちて、風のたびに揺れた。
(ここは違う)
あの部屋じゃない。あの声のある場所じゃない。
でも体が覚えている。声の調子を、空気の冷たさを、冷蔵庫を開けたときの舌打ちを。忘れたと思っていても、朝の誰かの声ひとつで戻ってくる。頭じゃなくて、体に染みついているものだった。
廊下に出ると、フィオナが階段の手すりにもたれて天井を見上げていた。
「おはようございます、アリエス」
「おはようございます」
「……顔色、あんまりよくないですね」
「昔のことを、少し」
言ってしまってから驚いた。台本を確認しなかった。アリエスとして正しいかどうか、考えもしなかった。フィオナが聞いたから、答えていた。
「そっか」
フィオナは頷いた。詳しく聞かなかった。目が少しだけ細くなって、受け取った顔をした。
「朝ごはん、食べましょう。ライナスさん、今日は何を増やしてるかな」
「……そうですね」
二人で廊下を歩いた。フィオナの靴が石に当たる音が、私の靴音と少しずれて鳴る。
声は、もう重ならなかった。
◇
昼すぎの廊下で、アルヴァンに会った。すれ違いざまに足を止めて、こちらを見る。
「顔色が悪い」
「……そうですか」
「眠れているか」
少し迷ってから、正直に答えた。
「眠れない夜が、ありました」
「そうか」
追及しなかった。それだけ言って歩き出して、去り際に「何かあれば言え」と低く付け足した。この人の心配は、いつも質問の形をしている。
◇
夜、眠れなかった。
ランプは消してある。天蓋の白い布が月の光を受けて浮いていた。窓が少しだけ開いていて、庭から虫の声が入ってくる。風が来るたびにローズマリーの匂いが薄く届いた。
記憶が来ていた。
床の冷たさだった。コンクリートの、硬くて乾いた冷たさ。背中が痛かった。布団が薄くて、冬でも変わらなかった。お腹が空いていた。いつから食べていないか覚えていない。水は水道があったから飲めた。蛇口をひねるとぬるい水が出て、それだけで少し落ち着いた。スマホの光の中でアリエスの話を読んでいた。
——ひかりって本当に、何もできないんだから。
母親の声が来た。はっきりした言葉じゃない。もっと曖昧な、空気みたいなものとして纏わりついてくる。あの家にいた頃の空気そのものが、今夜だけ部屋に入り込んでいた。
(崩れそう)
体が縮こまりそうになった。膝を抱えかけた。
でも——
手を伸ばすと、マットレスがある。分厚くて柔らかい。指先で触れると、シーツの編み目が少しざらついていた。天蓋がある。窓の外に庭がある。廊下のどこかで、ライナスの靴の音が規則正しく鳴っている。
明日の朝ごはんがある。
月が雲に入って、天蓋の光が消えた。暗くなった。でも音は消えなかった。虫の声と、遠いライナスの足音と、風が窓枠を鳴らす音。
(ここにいる)
あの夜じゃない。床じゃない。お腹は空いていない。ここは消えない場所だった。
ライナスの足音が近づいて、扉の前で一瞬止まった。気のせいかもしれない。でも、そう思った瞬間に胸の奥が少し緩んだ。誰かがいる。扉の向こうに。
足音が遠ざかっていく。
月が雲から出た。天蓋がまた薄く光る。
崩れなかった。
体の力が抜けて、背中がマットレスに沈んでいく。シーツが温かい。自分の体温で温まっている。あの部屋の床は、いつまで経っても温まらなかった。
(明日、朝ごはんがある)
前はそれを思うだけだった。今夜は、少しだけ嬉しい。違いが小さいのに、体の奥まで届く。
目を閉じた。
次話:「もう私のアリエスじゃない」




