第46話「この朝が、続けばいい」
朝、目が覚めた。
天蓋の布が見えた。白くて、薄い。カーテン越しの朝日で、天蓋の布がうっすら光っている。外から鳥の声がした。1羽じゃなくて、何羽かが交互に鳴いていた。
ベッドの中で、しばらく天井を見ていた。
14個のシミはない。ここは、あの部屋じゃない。分厚いマットレスがあって、毛布が温かくて、窓の外には庭がある。
(生きてる)
当たり前のことだった。でも今朝は、その当たり前が、少し重く感じた。重いというのは——悪い意味じゃなくて。ちゃんと、感じられるという意味で。
現実で死にかけた夜のことを思い出した。床が冷たかった。お腹が空いていた。スマホの光だけがあった。あの夜のことを思い出すと、胸がぎゅっとなる。でも今は——ベッドの中から天蓋を見上げていて、鳥が鳴いていて、温かい。
ベッドから出た。窓を開けた。朝の空気が冷たくて、腕に鳥肌が立った。でもその冷たさが、気持ちよかった。庭の花がまだ咲いていて、朝露がついている。光を受けて小さく光っていた。
廊下に出ると、侍女が「おはようございます」と頭を下げた。
「……おはようございます」
返事をして、食堂に向かった。足の裏に廊下の冷たさが来る。でも嫌じゃなかった。一歩ごとに、ここにいることを確認しているみたいだった。
食堂の前まで来て、足を止めた。
中から声が聞こえた。フィオナの声だった。「それ取ってください」と誰かに言っている。ライナスの「どれですか」という短い返事。フィオナの「そっちです、パンの隣の」。
(この声を、もっと聞いていたい)
そう思った。フィオナの笑い声を。ライナスの短い返事を。アルヴァンが黙って茶を飲む音を。この食堂の朝の音を、明日も、その次の日も。
(あ)
立ち止まったまま、気づいた。
今まで私は、「壊してはいけない」と思ってここにいた。この世界を守るために。台本通りに動いて、アリエスを演じて、真白さんが作ったものを傷つけないように。
でも今は——守るために、じゃなくて。
ここにいたいから、いる。
この朝が好きだから。この声が好きだから。食堂に行けば自分の席があるから。誰かが一皿増やしてくれるから。「おはよう」と言ったら「おはよう」が返ってくるから。
それは「守る」とは違った。
守るのは、外側から見ていることだった。大事なものをガラスの向こうに置いて、触らないように、壊さないようにしていた。
でも今、私はガラスの中にいる。食堂の中に席があって、名前を呼ばれて、怒ったり泣いたりしている。ここの一部に、なっている。
フィオナの声がまた聞こえた。「アリエス遅いですね」。ライナスの「来ます」。フィオナの「え、なんでわかるんですか」。
食堂に入った。
「あ、来た! おはようございます!」
フィオナが手を振った。テーブルにはパンとスープが並んでいて、湯気が立っている。ライナスが黙って椅子を引いた。テーブルの向こうにアルヴァンがいて、カップを口に運びながらこちらをちらりと見た。目が合いそうになって、すっと外した。でもカップを置く手が、少しだけゆっくりだった。
席に着いてパンを取る。焼きたてだった。一口食べると、バターの味が口の中に広がった。
ライナスが席を立とうとした。いつもの、一皿のために。
「……いいです」
思いがけない声が出た。ライナスが止まる。
「今日は、自分で取りに行きます」
立ち上がって、厨房の窓口まで歩いた。湯気の向こうで料理人が目を丸くしている。果物の小皿をひとつもらって、ついでにライナスの分のスープのおかわりも受け取った。席に戻って、ライナスの前に置く。
「……いつものお返しです」
ライナスは皿を見て、私を見て、それから黙って頭を少しだけ下げた。耳の先が、ほんのり赤い気がした。フィオナが噴き出した。
フィオナが「今日どうしますか」と聞いた。
「……まだ考えてません」
「じゃあ一緒に考えましょう。図書室行きます? 中庭もいいですよ。あ、ライナスさんも一緒でしょ?」
「はい」
「アルヴァン様は?」
アルヴァンが「知らん」と言った。でも、席を立たなかった。
フィオナが笑った。
私は、パンをもう一口食べた。温かかった。
(この朝が、続けばいい)
それは、「生きたい」とはまだ言えない形の——でも、たぶん同じ場所を向いている言葉だった。
次話:「それでも崩れない」




