第45話「ヴァネッサの笑顔」
ヴァネッサと、廊下で会った。
昼食の後だった。ライナスと食堂から戻る途中、角を曲がったところにヴァネッサがいた。付き人が3人、後ろに並んでいる。ヴァネッサは笑っていた。唇の形は完璧で、目尻も上がっているのに、温度がなかった。計測器みたいな笑顔だと思った。
「アリエス様、ごきげんよう」
「……ごきげんよう」
アリエスの口調が出た。体の残滓は薄くなっているけど、ヴァネッサの前ではまだかすかに動く。警戒の姿勢。背筋が伸びて、声が低くなって、表情が消える。アリエスの体が覚えている、この人への対し方。
「お元気そうですね。あの件、無事に済んで何よりですわ」
何より。
その言葉の裏に何があるのか、わかっていた。ヴァネッサにとって断罪は終わったことじゃない。ライナスが言っていた。公爵家と王家の婚姻を潰すことが目的で、断罪は手段に過ぎないと。
「……おかげさまで」
「最近、図書室に通っていらっしゃるとか。勉強熱心ですこと」
知っている。私の動きを、この人は知っている。東館の侍女頭から聞いたのだろう。
「……読書が好きなもので」
「まあ、前はそんなご趣味はなかったように思いますけど」
アリエスの変化に、ヴァネッサも気づいている。アルヴァンとは違う目で。探すのではなく、使えるかどうかを量る目で。
「人は変わるものです」
言ってから、驚いた。台本にない言葉が、口をついて出た。アリエスの体が動かしたんじゃない。私が——三枝ひかりが、ヴァネッサに向かって言った。
ヴァネッサの目が一瞬だけ細くなった。笑顔はそのままだった。
「ええ、確かに。変わりますものね」
それだけ言って、付き人を連れて去っていった。靴の音が廊下に規則正しく響いて、角を曲がって消えた。
去り際、ヴァネッサの手元が見えた。扇を持つ指が、白くなるほど強く柄を握っていた。笑顔は完璧なのに、指だけが笑っていない。
(この人も)
ふと、思った。この人も、誰かの台本で動いているんじゃないか。
家のために動いて、その家に「娘の独断」にされかけている人。読んだ話の中のヴァネッサは、いつも完璧で、いつも計算していて、いつも勝ちにきていた。でも、もう勝っても何も戻らないところまで来て、まだ続けているこの人は——やめ方を、知らないだけなのかもしれない。
わからない。わかりたいとも、まだ思えない。でもあの握りしめた指が、目に残った。
しばらく、その場に立っていた。
胸の中に、何かが溜まっている。
台本があった頃は、ヴァネッサに会っても何も感じなかった。アリエスの体が自動的に対応して、終わりだった。でも今は——
(怒ってる)
気づいた。私は怒っていた。
ヴァネッサに対して、だけじゃない。あの笑顔に対して。あの「何より」という言葉に対して。私の動きを調べて、変化を見つけて、それを利用しようとしている——その全部に対して。
でも、それだけじゃなかった。
もっと深いところで、もっと前から溜まっていたものが動いている気がした。
お母さんに何も言えなかったこと。王太子が何もしなかったこと。自分が何も言い返せないまま、ずっと黙っていたこと。
(怒っていいんだ)
台本がないから。アリエスは怒らないキャラクターだったけど、今の私は台本の外にいる。怒ってもいい。怒りを持っていていい。外に出す必要はない。でも、ある、と認めていい。
「アリエス様」
ライナスが後ろから声をかけた。ずっと待っていてくれたらしい。
「……ライナス」
「はい」
「ヴァネッサの次の動き、気になります」
「私もです」
「……でも今は、歩きたいです。少しだけ」
ライナスが頷いた。半歩後ろについた。
廊下を歩いた。午後の光が柱の陰を床に長く引いている。怒りは胸の中に置いたまま歩いた。重かった。でも、持てないほどじゃなかった。
今までは、怒りを感じることすらできなかった。アリエスの台本の中にいたから。何も感じないことが正解だったから。
でも今は違う。ここは台本の外で、怒りは私のもので、持っていていい。
足音が二つ、廊下に響いていた。
次話:「この朝が、続けばいい」




