第44話「また、閉じた」
シフトが終わった。
朔は裏口から出て、駐車場に停めた自転車のところまで歩いた。冬の朝で、空気が鼻の奥を刺した。コンビニの照明が駐車場に白い光を落としていて、その境目から先は暗かった。東の空の端だけ、ほんの少し紫がかっている。夜明けが近い。
手袋を嵌めてから、スマホを開いた。
なろうのアプリ。通知が来ていた。あの小説が、また更新されていた。
半年以上止まっていた作品が動き出したのは、秋の終わりだった。深夜の休憩室で気づいたあの晩、冷めた缶コーヒーを持ったまま、しばらく画面から目が離せなかった。誰よりも早く気づいた自信がある。それから毎晩、追いかけている。
指がかじかんでいるのにスクロールした。今度は2話分だった。
1話目は、アリエスが王太子と面会していた。断罪の後処理の話をされている。王太子が淡々と話して、アリエスが「特に、ありません」と答えて、それだけで終わっていた。紅茶が冷めていた。
2話目は、図書室だった。アルヴァンという男がアリエスに「空っぽじゃない」と言っていた。
朔はその2話を、駐車場に立ったまま読んだ。
王太子のパートで、胸がきつくなった。何もしない人間。守らない人間。傷つけないけど助けもしない。それがどんなにつらいか——朔は知っていた。
中学のとき、同じクラスにいじめっ子がいた。朔はいじめられていた。他のクラスメイトは、見ていた。先生も同じ。助けない。傷つけない。ただ見ているだけ。
あの時の教室と、この小説の応接室が重なった。
そして——あの子のことを思った。
あの子がコンビニに来なくなって、もう何ヶ月経つのかわからない。廃棄のパンを何回か渡した。受け取るとき小さく頭を下げる子だった。手首が細くて、顔色が悪くて、夏なのに長袖を着ていた。
朔は気づいていた。あの子が何かまずい状況にいることを。お金がないことを。たぶん家が荒れていることを。
でも、何もしなかった。
パンを渡すことしかできなかった。声をかける勇気がなかった。「大丈夫?」のひと言が言えなかった。見ていただけだった。
——王太子と、同じだ。
手袋の中で、指を握った。
コメント欄を開いた。
何か書きたかった。「面白かったです」じゃない。「アリエスが好きです」でもない。もっと、違うことが言いたかった。
あの子がこの小説を読んでいたこと。アリエスを好きだったこと。コンビニの雑誌コーナーの隅で、いつも立ち読みをしていたこと。
でも、それをどう書いたらいいのかわからない。
言葉を打とうとして、指が動かなかった。入力欄が白いまま光っていた。
閉じた。
自転車にまたがって、漕ぎ始めた。息が白い。ペダルが重い。信号が変わって止まった。その間に、もう一度スマホを開いた。コメント欄。白い入力欄。
何も打たずに、閉じた。
漕ぎ出した。朝の空気が耳を切るように冷たかった。ハンドルのゴムが硬い。帰り道は長くて、ずっとアリエスのことを考えていた。あの小説の中のアリエスが、誰かに「空っぽじゃない」と言われていたことを。
あの子に、言いたかった。
おまえは空っぽじゃなかったよ、と。
でもその言葉を伝える相手は、もういない。
信号が変わった。また漕ぎ始めた。指の先が、手袋の中で痺れていた。
次話:「ヴァネッサの笑顔」




