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私が書き終えた、大好きな悪役令嬢の話  作者: 夜凪 蒼


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第42話「見ていただけじゃなかった」

翌日、図書室で本を読んでいたら、アルヴァンが来た。


何も言わずに入ってきて、向かいの棚から一冊抜いて、窓際の椅子に座った。ページを開いて、読み始めた。それだけだった。話しかけてこないし、こちらも話しかけなかった。


でも、いる。


同じ部屋にアルヴァンがいると、空気が変わる。緊張するわけじゃない——もう「怖がらなくていい」と言われた後だから、あの日みたいに背中がぴりぴりすることはない。でも、見られている感覚はある。本を読んでいるはずなのに、たまにページをめくる音が止まる。その沈黙の間に、視線がこちらに触れている気がした。


30分くらい経った頃だった。


「何を読んでいる」


聞かれて、本を閉じて表紙を見せた。遠い海の町の話だった。


「変わったものを読むな」


「……変わっていますか」


「前のおまえは政治書しか読まなかった」


それはアリエスの話だ。真白さんが書いたアリエスの話。私の話じゃない。


「今は……こういう本が好きなので」


「そうか」


アルヴァンが本に目を戻した。また沈黙。ページをめくる音だけが部屋の中に落ちる。


午後の陽が斜めに差して、棚の革表紙が金色に光っている。埃が光の筋の中を浮かんでいた。


「アルヴァン」


呼んでから、少し後悔した。何を聞きたいのか、自分でもまとまっていなかった。


「なんだ」


「あなたは……なんで、私のことを見ていたんですか」


昨日言われた「変わったな」がずっと引っかかっていた。この人は、アリエスの変化に気づいている。前と違うことがわかっている。でもそれに気づくためには、前のアリエスを——ちゃんと見ていないといけない。


アルヴァンが本を閉じた。閉じた音が、静かな図書室に響いた。


「兄上は見ていなかった」


予想しない答えだった。


「え」


「兄上は、おまえのことを政略婚の相手としか見ていなかった。アリエスという人間を見ていなかった」


王太子のことだった。昨日の、冷めた紅茶の面会のことが胸に蘇った。


「俺は——兄上とは違う見方をしていた。それだけだ」


「違う見方」


「政治では見ない。人として見る。そうしたら、おまえが変わったのがわかった」


アルヴァンが窓の外を見た。雲が流れている。


「いつから変わったのかは知らない。理由も知らない。でも、前のおまえは——空っぽだった」


心臓が跳ねた。


「感情を消して、決まったことをやっていた。もったいないと思っていた」


(もったいない)


その言葉を、飲み込むのに時間がかかった。


真白さんが書いたアリエスは、感情を出さないキャラクターだった。それは——もったいない、のか。アルヴァンは、そう思って見ていた。断罪の前から。兄の婚約者を、政治じゃなくて人として。


「今のおまえは、空っぽじゃない」


アルヴァンが言った。こちらを見た。静かな目だった。探るような目じゃなかった。確認するような——いることを確かめるような目だった。


「選んでいる。迷っている。間違えている。でも、生きている」


喉の奥がきつくなった。


「見ていただけだった。何もしなかった。すまない」


「え——」


「断罪のとき、俺は何もしなかった。兄上と同じだ。見ていただけだった」


アルヴァンの声に、初めて揺れが混じった。ほんのわずかだったけど、聞き逃せなかった。


「……あなたは」


言いかけて、止まった。言葉が見つからない。でも何かを返さなきゃいけない気がした。


「あなたは……今、話してくれました」


そう言った。アルヴァンが一瞬、目を見開いた。


何もしなかったと言ったこの人が、今は目の前にいて、本を読みに来て、「変わったな」と言って、「空っぽじゃない」と言った。見ているだけじゃなくなっている。この人なりの距離で。


アルヴァンが本を開き直した。ページをめくる音が戻ってきた。


しばらく二人で、黙って本を読んだ。窓の外を雲が流れていく。図書室の空気は古いインクの匂いがして、埃の粒が光の中でゆっくり回っていた。


怖くなかった。


次話:「こぼれたもの」

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