第41話「めくる手が止まらない」
帰りの電車の中で、真白はスマホを開いた。
癖になっていた。増えていく話を、外にいるときまで確かめてしまう。窓の外を、雨の街が流れていく。吊り革に掴まったまま、読み始めた。
アリエスが王太子と面会していた。応接室で、向かい合って座っている。王太子が断罪の後処理を説明していて、アリエスが「はい」と答えている。
(ああ、あの場面)
顔を上げたら、降りる駅だった。慌てて電車を降りて、濡れた道を早足で帰った。傘を玄関に立てかけて、パソコンを開く。続きは、大きい画面で読みたかった。窓に水滴がびっしりと張り付いて、その向こうの街灯が、にじんで丸い光になっていた。
今夜は5ページ分。
スクロールした。
真白にはわかった。この場面がどういう意味を持つか。王太子はアリエスの婚約者として書いた。でも——善意の不在として書いた。悪人にはしなかった。ただ、いざというとき手を伸ばさない人間として。
画面の中のアリエスが、王太子に「何か言いたいことはあるか」と聞かれていた。
(言ってほしい)
声に出しそうになった。あの人に、言ってほしい。「どうして黙っていたんですか」と。「なぜ助けてくれなかったんですか」と。私が書けなかったその台詞を。
でもアリエスは言わなかった。「特に、ありません」と答えて、王太子は出ていった。紅茶が冷めていた。
その後の文章を読んで、手が止まった。
「(この人は、何も壊さない。でも、何も守らない。その空白が——思っていたよりも、きつかった)」
涙が出た。
キーボードに落ちそうになって、慌てて顔を上げた。画面をにじませるわけにはいかない。でも涙が止まらなかった。立ち上がって、キッチンの流しまで行って、水で顔を洗った。冷たかった。
善意の不在。
私が王太子をそう設計したのは、母のことがあったからだった。母は暴力を振るわなかった。必要なものは与えた。服も、食事も、学用品も。でもそこに気持ちはなかった。真白がいてもいなくても、母の生活は変わらなかった。「あなたのためを思って」と言いながら、真白が何を考えているかには興味がなかった。
それを、アリエスの物語に入れた。自覚はなかった。でもこの画面の中のアリエスが、冷めた紅茶を見つめながら「何もなかった。それが一番つらい」と感じている——その描写を読んだとき、自分の設計の意味に、初めて気づいた。
流しの水を止めた。
顔を拭いて、机に戻った。画面の文章が、まだ続いている。アリエスが廊下を歩いていた。ライナスが後ろにいた。アリエスの喉がきつくなっている。泣きそうなのに泣く理由がわからないと書いてあった。
(この子は、知ってる)
善意の不在のつらさを。何もされないことの痛みを。私が書いたアリエスは知らなかった。感情を持たせなかったから。でもこのアリエスは、知っている。経験した人間にしか書けない文章だった。
全部読み終わったとき、窓の外がうっすらと明るくなり始めていた。雨はいつの間にか止んでいて、濡れた路面が空の色を映している。
パソコンの画面を見つめたまま、手のひらをキーボードの上に置いた。
(このアリエスを、もっと見ていたい)
誰に言うともなく、思った。私が作って、私が止めたキャラクターが、私の知らないところで生きている。その続きを、見ていたい。
次話:「見ていただけじゃなかった」




