第40話「あの人の沈黙」
王太子に、呼ばれた。
夕方の応接室だった。西日が入る窓際に、王太子が立っていた。背が高い。金の飾り紐がついた軍服を着ていて、姿勢が良くて、顔立ちが整っていて——絵に描いたような人だった。真白さんの小説にも、そう書いてあった。完璧な外見。完璧な立ち居振る舞い。
でもこの人の目は、いつも少し遠い。
「座ってくれ」
言われて座った。向かい合うテーブルの上に、紅茶が2つ用意されていた。湯気が細く立っている。カップの取っ手が、こちらを向いて置かれていた。侍従が準備したんだろう。王太子本人がカップの向きを気にするとは思えなかった。
「体調は戻ったと聞いている」
「はい。ご心配をおかけしました」
アリエスの口調が出た。体の残滓が、まだこの人の前では少しだけ動く。王太子への敬語、王太子への距離感——それだけは、アリエスの体が覚えていた。
「断罪の件は、落ち着いた。外交上の処理も済んでいる」
「……はい」
「今後は、元の生活に戻ることになる。公爵家との関係も変わらない」
淡々と話していた。事務連絡だった。婚約者への言葉じゃなくて、処理報告だった。
真白さんの小説で、この人はこう書かれていた。「悪人ではない。アリエスに敬意はある。しかし愛情ではなく、政略婚として互いに距離がある」。
今、それを実感している。この人は私を——アリエスを傷つけようとしていない。でも守ろうともしていない。断罪のとき、外交の圧力に対してアリエスを切り捨てる側に回ったのは、この人だった。積極的に突き落としたんじゃない。手を、伸ばさなかった。
(お母さんと、似てる)
その考えが浮かんで、息が止まった。
お母さんも、私を殴ったわけじゃない。怒鳴ることはあったけど、暴力はなかった。私を、見なかった。お腹が空いていても、一人でいても、「捨てといて」とスマホを渡して、それっきり。
善意がないわけじゃない。悪意もない。そこに私がいなくても、この人の生活は何も変わらない——そういうことだった。
「何か、言いたいことはあるか」
王太子が聞いた。紅茶に口をつけていなかった。私も、つけていなかった。
(言いたいこと)
ある。たくさんある。断罪のとき、どうして黙っていたのか。どうして外交の処理の方が大事だったのか。エルナを庇ったアリエスのことを、どう思ったのか。
でも、聞いても仕方ないと思った。この人は答えるだろう。丁寧に、正確に。政治的な事情を説明して、自分の判断が合理的だったと言って、それで終わりだ。嘘じゃない。間違ってもいない。でも——そこに温度がない。
「……特に、ありません」
「そうか。では、引き続き」
王太子が立ち上がった。紅茶はそのままだった。扉に向かう足音が、規則正しく響いた。振り返らなかった。
一人になった応接室で、紅茶を見ていた。
湯気はもう消えていた。カップの表面に、西日が反射して、細い光の線を作っている。冷めかけた紅茶の匂いが、かすかに鼻に届く。
(この人は、何も壊さない)
でも、何も守らない。
その空白が——思っていたよりも、きつかった。
廊下に出ると、ライナスが壁際に立っていた。王太子との面会中、ずっと外で待っていたらしかった。何も聞かなかった。いつもの半歩後ろについた。
歩きながら、喉の奥がきつくなっているのに気づいた。泣きそうなんだと思った。でも泣く理由がわからなかった。傷つけられたわけじゃない。怒られたわけでもない。
ただ、何もなかった。
それが一番つらいんだって、現実でもう知っていたはずなのに。
次話:「めくる手が止まらない」




