第39話「止められませんでした」
朝、ライナスが廊下の窓際に立って待っていた。
朝の光が横から差していて、ライナスの横顔に陰影を作っている。私の足音に気づいて振り向いた。普段通りの無表情だったけど、待っていたということは、何かあったんだと思った。
「昨夜、ヴァネッサ侯爵令嬢が東館の侍女頭と面会しました」
「……何を話していた」
「アリエス様の日常の動きを聞いていた、と」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
ヴァネッサ。小説の中で、アリエスを断罪に追い込んだ人。証言を積み重ねて、エルナの身分を暴いて、外交問題に仕立てた人。台本の中のヴァネッサは計算高くて、笑顔の裏に温度がなかった。
台本が終わった後も、この人は動き続けている。
「私の動きを聞いてどうするんだろう」
独り言みたいに言ってしまった。ライナスが黙ったままこちらを見ている。
「断罪は終わったのに。エルナさんのことも解決したのに」
「ヴァネッサ侯爵令嬢の動機は、アリエス様個人への感情ではありません」
「え」
「公爵家と王家の婚姻を潰すことが目的です。断罪は手段に過ぎない」
ライナスが、こんなに長く話すのは珍しかった。驚いて顔を見た。いつも通り表情は読めなかったけど、声に力があった。
「つまり……まだ、続いてるってこと」
「はい」
「……審問は、どうなってるんですか。ヴァネッサへの」
断罪のあと、議長が言っていた。証言を組織的に集めた疑いについて、別途審問を行うと。
「続いています。ただ——ハイデン侯爵家は一切の関与を否定して、すべてを『娘の独断』として収める構えのようです」
「娘の、独断」
口の中で繰り返した。家のために動いて、その家に切り捨てられる。それが本当なら——
胸の奥が、変な具合にざわついた。ざまあみろ、とは思えなかった。
窓の外を見た。庭の花壇の向こうに東館の屋根が見える。あの建物のどこかで、昨夜ヴァネッサが侍女頭と向かい合っていたんだ。
(台本の外でも、敵はいる)
当たり前のことだった。台本がなくなったからって、世界が優しくなるわけじゃない。
「ライナス」
「はい」
「あなたは……いつから見ていたんですか。ヴァネッサの動きを」
少し間があった。ライナスが窓の外に目を向ける。横顔は相変わらず読めない。でも、黙り方が少し違った。考えている黙り方だった。
「……断罪の前からです」
「断罪の、前から」
「はい。ヴァネッサ侯爵令嬢が東館の使用人に接触していたことは、以前から把握していました」
「じゃあ——断罪を止められたんじゃ」
言ってから、口をつぐんだ。ライナスの目が、一瞬だけ揺れた気がしたから。
「……止められませんでした」
短い言葉だった。その後ろに、もっと長い何かがあるのが伝わった。でもライナスはそれ以上言わなかった。
「ごめんなさい。変なこと聞きました」
「いいえ」
また静かになった。廊下のどこかで扉が閉まる音がした。朝の空気が窓を通り抜けて、まだ少し冷たい。
「ライナス」
「はい」
「引き続き、教えてくれますか。ヴァネッサのこと」
「もちろんです」
「……ありがとうございます」
ライナスの肩が、ほんのわずかに動いた。頷いたんだと思う。表情は変わらなかったけど、声がほんの少しだけ、柔らかくなった気がした。
「食堂へ参りましょう」
「はい」
歩き出した。ライナスが半歩後ろにつく。いつもの距離。
ヴァネッサが動いている。台本の外でも、この世界は止まらない。でも——ライナスが見ていてくれる。断罪の前から、ずっと。止められなかったことを悔いながら、それでもまだ見ている。
朝の廊下は、格子窓を通った光が縞模様を作っていた。その光の帯を踏みながら歩いた。足の裏に、石の冷たさと、光の温かさが交互に来る。
次話:「あの人の沈黙」




