第38話「遠い場所の話」
夜、フィオナが部屋に来た。
お茶を2つ持ってきていて、片方を渡しながら「冷えますね」と言った。暖炉に火が入っていたけど、窓の外は風が出ていて、ガラスが小さく鳴っていた。
「図書室の本、どうでした?」
何日か前に一緒に行ったときのことを覚えていた。
「……まだ読んでます」
「へえ、長いんですか」
「長いというか……読むのが遅くて」
本当のことだった。三枝ひかりは本を読むのが遅い。読書はスマホの小説くらいしかしたことがなくて、分厚い本のページをめくるのに時間がかかる。アリエスの体も、ここでは助けてくれない。知識や教養は体に残っていないらしかった。
フィオナがカップを両手で包みながら、暖炉の前の敷物に座った。私もその隣に、少し間を空けて座る。火が近くて、頬に熱がくる。
「……ねえ、アリエス様」
「何だ」
「今だけ、様なしで呼んでいいですか」
「……なぜ」
「だって今、二人だし。暖炉の前だし。お茶飲んでるし」
理由になっていない。でもフィオナの顔がいつもより少しだけ真剣で、断る言葉が出てこなかった。
「……好きにしろ」
フィオナが嬉しそうに笑った。
「アリエスって、昔から本好きだったんですか」
(昔から)
アリエスの設定を思い出そうとした。東の領地で育って、父親と二人で。本があったかどうかは、小説に書いてなかった。
「……本は、好き、です」
「どんなのが好きですか?」
アリエスなら何が好きか。考えようとして、すぐにやめた。台本にはアリエスの好みなんて書いてない。わからないものを探してもしょうがない。
だから、自分のことを言った。
「……遠い場所の話が、好きです」
言ってから、胸がどきどきした。今のは三枝ひかりの言葉だった。
「遠い場所?」
「行ったことのない場所の話。知らない言葉で暮らしてる人の話。読んでると……そこに行ける気がして」
現実では、どこにも行けなかった。学校と家とコンビニを行き来するだけで、遠い場所なんて想像もできなかった。でもスマホの小説を読んでいるときだけは、ここじゃないどこかにいられた。
フィオナが、しばらく黙って聞いていた。カップから湯気が立って、細く揺れている。暖炉の明かりがフィオナの横顔を照らしていて、左の頬のくぼみに影が落ちていた。
「アリエス、今、すごくいい顔してます」
「……してません」
「してます。目がちょっと違うんですよ、好きなこと話すとき」
恥ずかしかった。顔が熱くなったのは、暖炉のせいだと思いたかった。
「フィオナは。どんな話が好きですか」
聞いてから気づいた。アリエスは人に質問を返さない。少なくとも真白さんが書いたアリエスは、そういうキャラクターじゃなかった。でも私は聞きたかったから聞いた。
フィオナが少し驚いた顔をして、それからぱっと明るくなった。
「私はですね——家族の話が好きなんです。けんかして、仲直りして、またけんかして、みたいなやつ」
「けんかして仲直り」
「はい。最終的にごはん一緒に食べるやつが特に好きです」
笑って言った。屈託がなかった。
(家族の話が好き、か)
フィオナは田舎の男爵家から出てきた。父親の意向で都に来たって、真白さんが書いていた。故郷を離れて、ここにいる。家族のことを思い出しながら、そういう話を読むのかもしれない。
「今度、図書室でそういう本探してみましょうか」
フィオナがぱちぱちと目を瞬かせた。
「アリエスが本を探してくれるんですか」
「……一緒に探すだけです」
「わあ」
嬉しそうだった。暖炉の火がパチ、と跳ねて、一瞬だけ部屋が明るくなった。フィオナが「わっ」と声を出して、カップを両手で抱えなおす。お茶が少しこぼれて、敷物に小さなシミができた。
「あーっ、ごめんなさい」
「……いいですよ」
その返事が、自分のものだと気づいた。アリエスの口調でも、台本の指示でもない。フィオナがお茶をこぼして、大丈夫だと言いたかったから言った。
お茶は少しぬるくなっていた。でも、飲むとお腹のあたりがじんわり温かくなった。
次話:「止められませんでした」




