第37話「見られている」
アルヴァンが怖かった。
理由は単純で、真白さんがこの人をほとんど書いていなかったから。フィオナのことは知っている。ライナスのことも知っている。ヴァネッサだって、怖いけど、どういう人間かは小説に書いてあった。
でもアルヴァンだけは、白紙に近い。王太子の異母弟で、冷静で、時々食堂にいる。それだけ。
それなのに、この人は私を見る。
朝の食堂でも、廊下ですれ違うときも——目が合うわけじゃない。合いそうになると、アルヴァンの方がすっと外す。でも外す直前の一瞬、その目が何かを探るように動くのがわかる。
(何を見てるの)
台本があった頃は気にならなかった。アリエスの体が、アルヴァンとの距離感を勝手に保ってくれていた。近づきすぎず、遠すぎず。でも今は体が教えてくれないから、どのくらい離れていればいいのか、どんな顔をすればいいのか、わからない。
その日の午後、練兵場のそばを通りかかった。
剣の音がして、足が止まった。乾いた、高い音。柵の向こうで騎士たちが組み手をしていて、その端に——アルヴァンがいた。
上着を脱いで、簡素なシャツ姿で、一人で剣を振っている。知らなかった。この人が剣を使うところなんて、読んだ話のどこにもなかった。振り下ろすたびに、空気の鳴る音がここまで届く。
引き返そうとして、止まった。アルヴァンがこちらに気づいて、剣を下ろしたからだった。汗を首筋に光らせたまま、柵のほうへ歩いてくる。
「……何か」
声が裏返りそうだった。アリエスの声じゃなくて、ひかりの声が出そうになった。
「座れば」
短い言葉だった。柵の内側の、剣の手入れ用らしい古い縁台を顎で示して、自分は柵に寄りかかった。命令でも提案でもない、ただの事実の確認みたいな口調。そこに座る場所があるから座れば、というだけのこと。
座った。縁台の端。木がささくれていて、長年の手の脂で黒く光っていた。
しばらく無言だった。風の音と、向こうで騎士たちの剣がぶつかる音だけがあった。雲が速く流れている。空が広かった。
「変わったな」
アルヴァンが言った。練兵場の方を見たまま。
心臓が跳ねた。
「……何が、ですか」
「おまえが」
その一言で、空気が変わった。アルヴァンがこちらを向いた。目が静かだった。怒っているわけでも、疑っているわけでもない。ただ、見ている。透かすように。
(気づいてる)
背中に冷たいものが走った。
アリエスの中身が変わったこと——私が入ったこと——に、この人は気づいているのかもしれない。言語化はできていないかもしれないけど、前のアリエスと今のアリエスが違うことは、わかっている。
「何が変わったと、思いますか」
声が震えなかったのが不思議だった。
アルヴァンが少し黙った。剣の音が一度止んで、また始まる。
「選び方が変わった」
「選び方」
「前のおまえは、選ばなかった。決まっていることをやっていた。今は、選んでいる。時々間違えながら」
返す言葉が見つからなかった。当たっていた。全部当たっていた。台本通りに動いていた頃の私と、台本がなくなって自分で選び始めた今の私と、その違いをこの人は見ていた。
「怖がらなくていい」
アルヴァンが言った。前を向いたまま。
「俺は何もしない。ただ見ている」
「それが、怖いんです」
正直に言ってしまった。アリエスなら言わない言葉だった。
アルヴァンが、ほんの少しだけ——目の端が動いた。笑ったのか、驚いたのか、わからない。表情の薄い人だった。
「そうか」
それだけ言って、剣を拾い直した。背を向けて、練兵場の真ん中へ歩いていく。すぐにまた、空気の鳴る音が始まった。
縁台に一人残されて、心臓がまだ速かった。手のひらを膝の上で握っている。木の縁台が、陽に温められてほんのり温かい。
(この人は、敵じゃない)
そう思いたかった。でもまだ確信が持てなかった。
でも——「怖がらなくていい」と言った声は、冷たくなかった。それに、剣を振っているこの人は、廊下で見るときより、少しだけ人間に見えた。
次話:「遠い場所の話」




