第36話「書いていない文字」
夕方、真白は外にいた。
駅前のカフェ。窓際の席にノートパソコンを広げて、何か書けるかもしれないと思って来た。外で書こうとするのは何ヶ月ぶりだろう。注文したカフェラテが減らないまま、画面のカーソルだけが点滅していた。
隣の席で学生たちが笑っていた。レジの奥で豆を挽く音がする。結局、一文字も書けなかった。でも、外に出ようと思ったこと自体が、自分でも少し不思議だった。
夜になる前に店を出て、家に帰った。
ワンルームの部屋は静かだった。窓の外は闇で、自分の顔がガラスに薄く映っている。冷蔵庫のモーター音だけが低く鳴っていた。
テキストファイルを開いた。「アリエス_原稿.txt」。
前に開いたとき、やっと数行だけ書けたファイル。カーソルの先は白いはずだった。
白くなかった。
文字が増えていた。
自分が打った覚えのない文章が、画面に並んでいる。前に確認したときより、明らかに長い。スクロールしても終わらない。
手が震える。震えているのに、スクロールをやめられなかった。
アリエスが図書室にいた。表紙の絵が気になって本を手に取っている、と書いてある。フィオナが隣で棚を見上げている。
(表紙の絵で、本を選んだ?)
違う。私が書いたアリエスは、そういう選び方をしない。感情で動かないように設計したキャラクターだった。政治書や法律書を効率的に読む人間として書いた。表紙の絵なんか見ない。
でもこの文章の中のアリエスは、遠い海の絵を見て、手を伸ばしていた。
スクロールを続けた。フィオナが「すっごい量」と言っている。アリエスが「行ってみようかな」と答えている。
(「かな」?)
口の中で、その語尾を繰り返した。アリエスは「かな」と言わない。私はそう書いていない。断言か沈黙か、どちらかしかないキャラクターとして書いた。でもこのアリエスは、迷いながら、自分で答えを探している。
知らないアリエスだった。
私が書いたアリエスは——怖いと言えない人だった。迷っていると言えない人だった。感情を出さないことで自分を守る人間として書いた。それは、私自身がそうだったからだ。母の前で「嫌だ」と言えなかった。「自分はこうしたい」と言ったことがなかった。だからアリエスにも、その口を持たせなかった。
でもこのテキストのアリエスは、「行ってみようかな」と言っている。怖いものを怖いと言って、わからないものをわからないと言って——それでも立っている。
画面から目を離した。指がキーボードの上にあるけど、触れていない。
誰が書いているのか、わからない。自分のパソコンの、自分のファイルの中に、自分が書いていない文字が増えている。
でもこのテキストの中のアリエスは、私が止まった場所から歩き続けている。私が書けなかった続きを、誰かが書いている。
次のページを、スクロールしたかった。するのが怖かった。
どちらの気持ちが強いのか、自分でもわからないまま、パソコンを閉じた。
次話:「見られている」




