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私が書き終えた、大好きな悪役令嬢の話  作者: 夜凪 蒼


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第35話「初めて、選んだこと」

翌朝は、部屋の中から始まった。


侍女が来る前に目が覚めて、ベッドの縁に腰かけたまま、しばらく動けなかった。昨日までは、起きれば体が勝手に動いた。顔を洗う順番も、ドレスに腕を通すタイミングも、アリエスの体が知っていた。今朝はそれが、遠い。消えたわけじゃない。けど、かすかになっている。


着替えのとき、侍女と動きがずれて、二人同時に小さく「あ」と言った。侍女が不思議そうな顔をしていた。ごまかすように窓の外を見たら、庭の木が朝の風に揺れていた。


手探りの朝だった。それでも、食堂までの廊下は歩けた。道はもう、私自身が覚えている。


食堂は、いつもと同じだった。


カーテンが薄い陽で白く光っていて、テーブルの上にパンの蒸気が立っている。フィオナが「おはようございます!」と手を振って、その勢いでフォークを落とした。「あっ」と言って拾う。ライナスが厨房から出てきて、黙って一皿足す。今日は焼いたハムだった。皮の端がカリッとしていて、脂の匂いが鼻に届く。


(変わらない)


台本がなくなっても、朝が来る。食卓がある。フィオナが笑う。ライナスが一皿増やす。


——でも、私は変わった。手探りで、自分でフォークを持つ感じがする。


テーブルの向こうに、アルヴァンがいた。


いつもの席。カップを音もなく口に運んでいて、こちらを見ていない——ように見えて、視線の端がこっちに触れている気がした。気のせいかもしれない。でもアルヴァンと目が合いそうになると、背中がぴりっとした。


(この人のことが、わからない)


真白さんの小説では、アルヴァンはほとんど書かれていなかった。名前と、王太子の弟だという情報と、数回の短い台詞だけ。だから私にとってアルヴァンは、読んでも輪郭がぼやけたままの人物で——それが怖かった。台本があった時はまだよかった。アリエスの体がアルヴァンへの距離感を知っていたから。


今は、それもない。


「アリエス様、今日はどうしますか?」


フィオナの声で我に返った。


「どう、とは」


「お天気いいですよ。図書室にでも行きます?」


(図書室)


アリエスは図書室に行く人だっただろうか。わからない。台本がないから確認できない。


「……行ってみようかな」


言ってから、口を押さえそうになった。「行ってみようかな」はアリエスの言い方じゃない。アリエスなら「行きましょう」か「……好きにしろ」だ。でも今、口から出たのは、三枝ひかりの言葉だった。


フィオナが一瞬だけ止まった。こちらを見ている。


「……なに」


「言葉遣い、少し変わりましたね」


心臓が跳ねた。


「前のアリエス様は『行ってみようかな』なんて言いませんでした」


どう返せばいい。バレた? おかしいと思われた?


「——いいですね、その感じ」


フィオナが笑った。「一緒に行っていいですか」とすぐに立ち上がる。


「……好きにしろ」


ライナスが静かにスプーンを置いて、こちらを見た。アルヴァンが席を立ち、何も言わずに出ていく。その背中を見ていたら、また背中がぴりっとした。


図書室は城の東棟にあった。午前の光が窓から斜めに入ってきて、革張りの本の背表紙が金色に光っている。古いインクと紙の匂いが混じった空気を吸い込むと、鼻の奥がつんとした。フィオナが「すっごい量」と棚を見上げている。


私は一冊、手に取った。


アリエスが読みそうな本じゃなかった。法律書でも政治の本でもない。表紙に描かれた、遠い海の絵が目に入って、手が伸びていた。自分で伸ばした手だった。アリエスの体が動かしたんじゃなくて、私が取りたくて取った。


ページを開く。知らない町の、知らない言葉の話が書いてあった。


(これでいいのかな)


アリエスかどうか、わからない。正しいかどうかも、わからない。でも、今日は自分で選んだ。選んだ本の重さが、まだ手の中に残っている。


次話:「書いていない文字」

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