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私が書き終えた、大好きな悪役令嬢の話  作者: 夜凪 蒼


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第34話「次のページが、ない」

廊下を曲がったとき、足が止まった。


午後の光が壁のタペストリーの縁を照らしていて、鷹が翼を広げた織り模様の影が床に落ちている。ライナスが半歩後ろにいる。いつもの距離だった。


(ここ)


知らない。


突き当たりに小さな礼拝堂の扉があって、その手前に柱が二本並んでいる。柱の間に色あせた掛け絵がかかっていて、聖女が両手を広げている——たぶん。絵の下半分は黒ずんでいて、よく見えなかった。


何度も読んだのに、この廊下は出てこなかった。


わかっていたはずだった。真白さんのお話は、断罪の場でアリエスが口を開く手前で止まっていた。エルナが扉を開けたあの瞬間から、私はもう、書かれていない場所にいる。


それでも歩けていた。食堂も、中庭も、夜の廊下も、ぜんぶお話に出てきた場所だったから。アリエスの体が道を知っていたから。書かれた世界の続きを、借りた足で歩いているだけのつもりでいられた。


でもこの廊下は、違う。


読んだ覚えがない。体も、止まっている。足がどっちに向かえばいいのか、教えてくれない。


お腹の底が、すうっと冷たくなる感じがした。


「ここから先、うまく書けなくて止まっています」。作者さんのあのコメントを、私は何回見たか覚えていない。その「ここから先」に、今、立っている。


「アリエス様」


ライナスの声に振り返った。表情はいつも通り読めない。でも、まっすぐこちらを見ていた。


「顔色が」


「……平気です」


嘘だった。ぜんぜん平気じゃない。


台本がない。ここから先、アリエスがどう歩くのか、誰に何を言うのか、どこで笑ってどこで黙るのか——私が何度も読んだ小説には、何にも書いてなかった。


今までは、助けてもらっていた。アリエスの体が覚えている動き方に。口が勝手に動いて、ちゃんとアリエスらしい返事が出てくれた。歩き方も、背筋の伸ばし方も、紅茶のカップの持ち方も、体が知っていた。


でも今、口が動かない。


体に聞いても、何も返ってこない。真白さんが書いたところまでは案内してくれたけど、その先の道は、アリエスの体も知らないのかもしれない。


「……少し、歩きすぎたみたいです」


出た言葉は、アリエスの口調じゃなかった。「みたいです」なんて、アリエスは言わない。ライナスが一瞬だけ目を細めたのがわかった。でも何も言わなかった。黙って半歩後ろに戻る。


廊下を引き返しながら、考えた。


(壊しちゃいけない)


ずっとそう思って、ここまで来た。真白さんが作った世界を、フィオナが笑えるこの場所を、私がめちゃくちゃにしちゃいけないって。台本通りに動いていれば大丈夫だった。レールがあった。体が教えてくれた。


でも——台本がなくなったなら、壊す心配も、ないんじゃないか。


だって。台本に書いてないことは、間違いも正解もない。


その考えが浮かんで、しばらく消えなかった。窓の外に庭の白い花が見えて、午後の光の中でゆっくり揺れていた。ここから先は地図の外だ。私が、自分の足で歩くしかない。


怖い。すごく怖い。


でも、足は止まっていなかった。


次話:「初めて、選んだこと」

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