第3話「目が笑っていない」
城の中を歩くのに、少しだけ慣れてきた。
不思議なことに、体が道を覚えている。左の廊下の先が図書室で、右へ曲がれば中庭。考えなくても足がそっちに向かう。私が何回も読んで覚えた知識と、アリエスの体が知っている記憶が重なって、迷わずに歩けた。
廊下で使用人とすれ違った。若い男の子で、書類の束を抱えていた。こちらを見た瞬間、体をこわばらせて壁に寄った。道を空けている。アリエスが通るから。
アリエスの体はまっすぐ歩いた。目もくれずに。
でもすれ違いざまに、書類の一枚が滑り落ちるのが見えた。男の子は気づいていない。
足が止まった。アリエスの足じゃなくて、私の足。振り返って、床の紙を指さした。
「……落ちた」
男の子が振り返って、書類を見て、それから私を見た。目が丸かった。
「あ——ありがとうございます」
小さな声だった。私はもう前を向いて歩き出していた。アリエスの体が勝手に前を向かせた。でも後ろで男の子が立ち止まっている気配がした。
「アリエス様」
別の声がした。廊下で声をかけられて、足が止まった。
栗色の髪をきっちり結い上げた女の人が、微笑みながら立っている。
読んだことがある。ヴァネッサ。この人のこと。
「最近、お顔の色がよろしいですわね。何かいいことでも」
笑顔なのに、目が笑っていない。読んだときもそうだった。この人はいつもこういう顔でアリエスに近づいてきて、あとで——
足の裏が冷たくなる。指先も。さっきまで普通に歩いていたのに、急に体温が引いていく感じがした。
この人がアリエスを追い詰めるんだ。アリエスが誰かを守ろうとしたのを、この人がねじ曲げて告発する。
逃げたい。でも足が動かない。アリエスの体は逃げない。
「……あなたこそ」
口が動いた。アリエスの声で。
「よく眠れていそうで、羨ましい」
自分で考えた言葉じゃない。でもヴァネッサの笑顔が一瞬だけ固まったのを見て——怖い。この人の笑顔が崩れるのも、崩れたあとすぐに戻るのも、全部怖い。
「ごきげんよう、アリエス様」
背中を向けて去っていった。ヒールの音が廊下に響いて、だんだん小さくなる。聞こえなくなるまで動けなかった。
窓の外に目をやった。
中庭に、人がいる。
銀灰色の髪。整った顔。こっちを見ている。
——表情がない。
笑ってない。怒ってもない。なのに、目がまっすぐこっちに向いていて、動かない。
知ってる——と思ったけど、この人のことはあんまり覚えていない。お話の中でずっと端のほうにいて、何を考えているのかよくわからなかった人。作者さんがそこまで書けなかったから。
でも、この目は読んでいても感じなかった。
見られている。見透かされている気がする。アリエスとしてじゃなくて、その中にいる私のほうを。
背筋がぞくっとした。
目が合ったまま、どれくらい経ったかわからない。向こうがふっと視線を外して、中庭の奥に歩いていった。
息を吐いた。止めていたことに、今気づいた。
廊下を歩きながら、さっきのヴァネッサの笑顔を思い出していた。冷たくて、きれいで、怖かった。
でもアリエスの体は怖がっていなかった。ちゃんと言い返した。私一人だったら、きっと黙って俯いていた。
次話:「あの子と、同じ」




