第32話「春」
庭に花が咲いていた。
中庭に出たとき、白い花が一面に広がっていた。膝ほどの高さの木の足元に、丸く固まって咲いている。風が吹くと花びらが舞って、地面に白い点が散った。空気が、甘い。花の匂いだった。
(春だ)
現実では、春が来てもあまり気づかなかった。部屋の窓は小さかった。外に出ることが少なかった。春の匂いが何なのか、知らなかった気がする。給食のメニューが変わったことで季節がわかるくらいだった。
ここでは——庭がある。光がある。匂いがある。
「綺麗ですね」
フィオナが隣に来ていた。いつの間にか。肩が触れそうな距離に立っている。
「……そうだな」
「毎年ここの春は好きなんです。アリエス様は?」
花を見た。白い花びらが、光を受けて少しだけ透けている。
「……好きだ」
言ってから、驚いた。「好き」が、勝手に出た。アリエスの口から。でもアリエスの感情なのか、ひかりの感情なのか——もう、わからなかった。
フィオナが「わあ」と声を上げた。「アリエス様が『好き』って言うの、珍しい」
「……そうか」
「すごく珍しいです」
フィオナの声が弾んでいた。金色の巻き毛が、春の光の中で明るい。
花びらが一枚、肩に落ちた。フィオナが「あ」と言って、指でそっと摘んで、風に乗せた。ふわりと飛んで、どこかへ消える。
「春、楽しみましょうよ」
「……そうだな」
花を見ていたら、ふいに——胸の奥が締まった。
(お父さんと)
花を見に行ったことが、あった。たぶん。小さい頃。手を繋いで、公園を歩いた。花の名前を聞いたけど忘れた。「きれいだね」と言って、お父さんが「うん」と言った。
それだけの記憶が、ここの花と重なった。
指先が、冷たくなった。
フィオナが「アリエス様?」と声をかけた。顔を覗き込んでいる。
「……なんでもないです」
「顔色が」
「大丈夫です」
嘘だった。大丈夫じゃない。でも何が大丈夫じゃないのか、自分でもわからなかった。花が綺麗で、春が来ていて、隣にフィオナがいる。なのに胸の奥のどこかが、ぎゅっと痛い。
(あのときの公園は、どこだったかな)
思い出せない。お父さんの顔も、だいぶぼやけてきている。
フィオナが何か言った。聞こえなかった。花びらが風で舞った。白いものが視界の端を横切った。
「——アリエス様、お水飲みますか」
「……はい」
フィオナが水差しを持ってきた。ベンチに座った。水を飲んだ。冷たさが喉を通って、少しだけ楽になった。
「無理しないでくださいね」
「してません」
「してますよ。いつも」
フィオナが隣に座った。何も聞かなかった。ただ座って、一緒に庭を見ていた。
次話:「朝ごとの一皿」




