第31話「ひとり」
フィオナが帰省した。
最初の朝、食堂の隣の椅子が空いていた。椅子だけがある。朝の光が、その背もたれに落ちている。
(一人だ)
そう思って——少し驚いた。
一人でいることは得意だったはずだった。現実ではずっと一人だった。部屋に一人。食卓に一人。教室の端に一人。慣れていたはずだった。
なのに今、隣の椅子が空いているだけで、何か足りない気がする。
ライナスが半歩後ろにいた。厨房から戻ってきて、黙って一皿置く。今日は根菜の煮物だった。
食べた。温かい。味はわかる。でも横に誰もいない。
夕方、アルヴァンに廊下で会った。「食事は取れているか」と聞かれた。
「……食えている」
「……隣のやつがいないと静かだな」
アルヴァンがそう言って、行ってしまった。
(静かだ)
確かに、静かだった。フィオナがいないと、食堂で声を出す人が減る。廊下で「アリエス様!」と呼ぶ声がない。ライナスは黙っているし、アルヴァンは通り過ぎるだけだ。
2日目の夜。廊下を歩いていて、誰かに話しかけたくなった。何を話すわけでもない。ただ、声が聞きたかった。
ライナスが半歩後ろにいた。
「……ライナス」
「はい」
「……いえ、なんでもないです」
ライナスが少し黙って、それから言った。
「……何か、ございましたか」
「いえ。本当に、なんでも——」
「フィオナはじき戻ります」
短い言葉だった。でも、見抜かれていた。
「……わかっている」
「はい」
それだけだった。でもライナスの声が、いつもより少し柔らかかった気がした。気のせいかもしれない。
数日後。フィオナが戻ってきた。
昼過ぎに、廊下の向こうから声がした。
「ただいまもどりました!」
その声が耳に入った瞬間、胸の奥がどくんと動いた。
弟は大事にならなかったそうだ。「アリエス様、ありがとうございました」と深く頭を下げた。
「……戻ったんですね」
「はい! 寂しかったですか?」
「……そんなことはありません」
「えー」
「そんなことはありません」
フィオナが笑った。いつもの顔だった。何日かいなかったのに、笑い方が変わっていない。
私は前を向いた。
(そんなことないって言った)
嘘だった。胸の中だけで、認めた。
少し寂しかった。椅子が空いているのを見るたびに、何かが足りなかった。
それが怖い。同時に、当たり前のことな気もした。いつもいる人がいなければ、寂しい。普通のことだ。
——普通のことが、怖い。慣れてしまうことが。
次話:「春」




