第30話「ここにいます」
廊下の端で、フィオナが泣いていた。
偶然だった。書庫に行く途中で角を曲がったら、壁に向かって立っていた。肩が震えている。
(どうすればいい)
アリエスなら——わからなかった。真白さんはこういう場面を書いていない。フィオナが泣くシーンは小説になかった。
「フィオナ」
声をかけたら、振り返った。目が赤い。まつ毛が濡れている。
「あ——アリエス様……」
「……何があった」
フィオナは少し迷ってから言った。
「……手紙が来て」
「弟」
「病気だそうで。お母さんから知らせが来ました」
フィオナの実家は、田舎の小さな男爵家だった。父の意向で都に出されて、公爵家に預けられている。家族とは離れている。
「大事にはならないって。ただ——少し、心配で」
フィオナは笑おうとした。でもいつもと違う。えくぼが出ない。口元だけが動いて、目が追いつかない笑い方だった。
「ごめんなさい。変なところを見せて」
「……なぜ謝る」
「アリエス様の前で泣くのは、おかしいかと思って」
(おかしくない)
でもアリエスならそうは言わない。私は——どう言えばいいのかわからない。
何も言えない時間が、少しだけ続いた。フィオナが袖で目元を拭いた。
「……帰りたいか」
「え」
「弟のところへ」
フィオナが目を丸くした。
「でも、アリエス様のそばを離れるのは——」
「……ここにいる」
口が動いた。アリエスの声で。
「私はここにいる。だから帰れ」
フィオナが泣いた。さっきとは違う泣き方だった。声を出さずに、涙だけが頬を伝う。
「ありがとうございます」
「……余計なことを」
「余計じゃないです」
フィオナが笑った。今度はえくぼが出た。目が赤いまま、でも笑っている。
(この顔)
守りたい。この笑顔を壊しちゃいけない。理屈じゃなくて、胸の奥のどこかが、そう言った。
「フィオナ」
「はい」
「……大丈夫だ」
なんの根拠もなかった。でもフィオナが「はい」と頷いた。信じたみたいに。
私はその顔を見ていた。廊下の光が、フィオナの金色の髪を白っぽく照らしていた。
次話:「ひとり」




