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私が書き終えた、大好きな悪役令嬢の話  作者: 夜凪 蒼


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第29話「怒っていい」

ヴァネッサに、廊下で会った。


夕方だった。蝋の焼ける匂いが漂っている。窓から入る風が、首筋に冷たかった。


ヴァネッサが付き人を二人連れて歩いてきた。こちらに気づいて、足を止めた。


笑っていなかった。あの温度のない微笑が消えていた。代わりに——何もない顔をしていた。感情がない、のとは違う。意図的に何も見せていない顔。


「ごきげんよう、アリエス様」


声は丁寧だった。完璧な礼儀。でも目が言っていた。終わっていない、と。


すれ違おうとした。肩が触れる距離。ヴァネッサの香水のにおいが鼻をかすめた。冷たい花のにおい。


足が止まった。


口が開いていた。


「——あの子の顔、見ていたか」


自分でもびっくりした。アリエスの声だった。短くて、冷たくて。でも中身は私だった。


ヴァネッサが振り返った。


ヴァネッサの目が一瞬だけ揺れた。何か返そうとして——やめた。口を閉じて、そのまま歩いていった。


付き人の一人がちらっとこっちを見た。ヴァネッサは振り返らなかった。


心臓がばくばくしている。手が震えている。言ってしまった。


(怒ってる)


初めて気づいた。


フィオナを不安にさせたこと。ライナスが断罪の朝、いつもより早く廊下にいたこと。エルナが自分の身分を危険にさらしてまで証言を覆したこと。アルヴァンが王弟の立場を使って声を上げたこと。


みんな、巻き込まれた。


ヴァネッサが仕組んだ告発のせいで。


アリエスは怒らない。感情を出さない。そう思っていた。そう演じていた。


でも今、怒っている。


(これはアリエスの怒り? それとも私の?)


わからない。最近、わからないことが増えた。笑いかけたとき、フィオナに返事をしたとき——アリエスの反応なのかひかりの反応なのか、境界がぼやけている。


でもこの怒りは、はっきりしている。


エルナを巻き込んだことに。フィオナが泣きそうな顔をしていたことに。ライナスが黙って早起きしていたことに。


あの人たちは、私のために動いた。


現実では——三枝ひかりのためには、誰も動かなかった。お腹が空いていても。一人でいても。


ここでは違った。動いてくれた人がいた。


だから怒れる。守りたいものがあるから。


(怒っていい)


そう思った。さっき口から出た言葉は、計算じゃなかった。抑えきれなかった。切り取られるかもしれない。また利用されるかもしれない。


でも——出てしまった。出てしまったものは、もう戻せない。


廊下の窓から、夕暮れの橙色が入り込んでいた。壁に自分の影が長く伸びている。


しばらくそこに立って、胸の奥のその熱を、静かに感じていた。


現実では、怒ったことがなかった。怒る気力が残っていなかった。怒ったって何も変わらなかったから。


でも今——


(怒れるって、こういうことなのかな)


体の真ん中に、何かが座っている。重くて、熱い。嫌な感覚じゃなかった。


次話:「ここにいます」

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