第23話「まっすぐな背中」
大広間を出た。
廊下に人がいた。審議を聞いていた貴族たちが、固まって何か話している。声は聞き取れないけど、ちらちらとこちらを見る人がいた。目が合うと、逸らされる。
それとは別の視線も感じた。アルヴァンのほうを見ている人たちがいた。「なぜ王弟が」「王太子殿下は何もおっしゃらなかったのに」——断片的に聞こえた。
みんな混乱している。婚約者である王太子が黙っているのに、政治に興味がないはずの弟が口を出した。予定にないことが起きた。ヴァネッサだけじゃない、この場にいた全員が計算し直している。
(終わっていない)
ライナスが半歩後ろにいた。いつもの場所に、いつもの距離で。何も言わないけれど、歩く速度が私に合っている。
廊下を曲がったところで、エルナを見つけた。壁際に立っていた。両手を前で組んで、少し俯いている。
「エルナさん」
声をかけたら、顔を上げた。目が少し赤かった。
「アリエス様」
「……大丈夫か」
聞いてから、変な質問だと思った。大丈夫なわけがない。身分を隠していたことが公になりかけている。
「大丈夫です」
エルナは言った。声は落ち着いていた。でも、手が組んだまま動かない。力が入っている。
「なぜ、証言を」
エルナは少し黙ってから、口を開いた。
「あの日、上の者に髪を掴まれていました。廊下の隅で。周りに人はいました。でも誰も——止めませんでした」
声が静かだった。怒っていない。ただ事実を並べている。
「アリエス様だけが、止めてくださった。駆け寄ってきて、あの人の手を引き剥がした。名前も聞かないまま」
組んでいた手が、一瞬だけ緩んだ。
「私を助けた人が、私のせいで罰を受ける。それを知っていて黙っていることは——できません」
「でも、あなたの立場が」
「はい。身分を隠してこの国に来ていた私が表に出れば、問題になります」
エルナの目がまっすぐだった。わかった上で来ている。
「このまま黙って国に帰ったら、私は一生このことを抱えて生きることになります。助けてくれた人を見殺しにした人間として」
エルナの声が少し震えた。初めて感情が見えた。
「そんな顔で父の前には立てません」
私は何も言えなかった。アリエスの体が覚えていることだった。上の者が理不尽なことをしていて、それを見て、感情が出てしまった。アリエスにとっても他人事ではなかったから。
その感情が、伝わっていた。名前も知らないまま。
「でもヴァネッサは——」
「はい」
エルナの目が、静かだった。わかっている、という目だった。
「残りの証人はヴァネッサ様が集めた方々です。私が撤回しても、5人の証言が残ります。そして、私の身分の問題を突かれました」
「……」
「正直に申しますと、予想していました。あの方が引き下がるとは思っておりませんでしたので」
予想して、それでも来た。
「……どうやって、審議のことを」
聞きたかった。エルナは屋敷を出ていたはず。どこにいたのか、どうやって今日ここに来れたのか。
「厨房のマリーが、会いに来てくれました。私が屋敷を出たあとも、あの子だけは居場所を知っていたので」
マリー。フィオナが見つけてくれた人。
「告発のことは知っていました。前から。でも動けなかった」
エルナが少し目を伏せた。
「マリーが来て、泣きながら聞くんです。『本当にあったことを知っているのはあなただけなのに、このままでいいの』って」
声が少し揺れた。
「あの子に会うまでは、自分に言い訳ができていたんです。身分のこともあるし、出ていけば問題になるし、と。でもマリーの顔を見たら——知っていて黙っている自分が、もう無理でした」
マリーに繋いだのはフィオナだった。フィオナに頼んだのは私だった。
胸の奥が熱くなった。
フィオナが動いてくれていた。私が「何かできないかな」と言ったあの夜から、ずっと。マリーに話して、マリーがエルナに繋いで、エルナがここに来た。
私一人では何もできなかった。でもフィオナに頼ったから、ここまで届いた。
「王家にとっても——」
エルナが小さく頷いた。
「私がここにいることは王家が承認していました。秘密裏に。それが公になれば、王家の管理責任が問われます」
だから王太子は動かなかった。アリエスを守るためじゃない。自分たちの責任を隠すために、アリエス一人に罪を被せたほうが都合がいい。
読んだ話の中にも、こういう政治の話があった気がする。飛ばして読んでいたから、ちゃんとは覚えていない。でもアルヴァンが前に言っていた。「兄上はお前を守らないだろうな」って。こういうことだったんだ。
「アルヴァンが声を上げてくれましたが」
エルナが言った。
「王弟の発言は、王家の公式見解にはなりません。次の審議で、王家がどちらにつくかで決まります」
廊下の奥から、足音がした。誰かが来る。エルナが姿勢を正した。
「アリエス様」
「はい」
「私は正式に、自分の身分を明かすつもりでいます。それが唯一の手段です。王家が秘密にしていた事実を、私の口から出す。そうすれば、王家は私を嘘つきにはできません」
「でもそうしたら——」
「外交問題になります。でも、アリエス様に罪を着せるよりは」
エルナが少しだけ笑った。疲れた笑みだったけれど、目が逸れなかった。
「——正しい形で外交問題にしたほうが、収まりがつきます」
足音が近づいてきた。エルナが一歩下がった。
「また、お話しできますか」
「……はい」
「ありがとうございます」
エルナが頭を下げて、廊下を歩いていった。背中が小さかった。でも背筋は、まっすぐだった。
ライナスが半歩後ろにいた。何も言わない。
フィオナが廊下の向こうから走ってきた。
「アリエス様! 大丈夫でしたか!」
「……まだ終わっていません」
「え」
フィオナの顔が曇った。えくぼが消える。
「まだ、続きがあります」
「……」
フィオナが、何も言わずに隣に立った。手が、そっと私の袖に触れた。
(この子が、不安そうにしている)
胸の奥が、ぎゅっとした。
次話:「また朝」




