第22話「読んだことのない場面」
告発の言葉が読み上げられた。
使用人への暴行。他国から来ていた女性への傷害。外交上の問題になりかねない事案として。証人は6名。全員が「アリエスがその女性を一方的に傷つけた」と証言していると。
声が広間に響くあいだ、私は前を向いたまま聞いていた。
(知ってる)
ヴァネッサが組み立てた告発だった。小さな証言を積み重ねて、最後にエルナの身分を暴いて外交問題に仕立てた。読んだ。この場面を読んだ。
でも、読んだことと、ここに立って聞くことは違った。
証人の名前が一人ずつ読み上げられるたびに、指先が冷えていった。知らない名前ばかりだった。顔が浮かばない人が、私のことを証言している。
エルナ。フィオナから聞いた名前。でも顔は知らない。読んだ話の中でも「侍女」としか書かれていなかった。今、どこにいるんだろう。告発では「被害者」とされているけど、本当は——アリエスが庇った相手だった。
議長が口を開いた。「被告人は何か申し開きがあるか」
口を開こうとした。アリエスなら何と言う。言い訳はしない。でも事実を認めるわけでもない。
足が前に出ていた。体が勝手に動く。唇が開きかけた——
「——失礼いたします」
後ろから、声がした。
全員が振り返った。大広間の扉が開いていた。
小柄な女性が立っていた。年齢は私と同じくらいに見える。地味な服装だったけれど、立ち方が違う。背筋の通し方が、使用人のそれじゃない。
(この人)
「私はエルナと申します。この告発において被害者とされている者です。証言を撤回したく参りました」
声が、静かに広間を渡った。
「私はアリエス様に傷つけられてはおりません。私が上の者から理不尽な扱いを受けていたところを、アリエス様が止めてくださいました」
広間が、静まった。
ヴァネッサの表情が——初めて、動いた。目が細くなる。でもすぐに戻った。
この人が、エルナ。フィオナから名前だけ聞いていた。でも顔を見たのは初めてだった。読んだ話の中では「侍女」としか書かれていなくて、どんな人なのか想像もできなかった。この人が、自分の立場を危うくしてまで、ここに立っている。
そして——この場面を、私は知らない。
何回読んでも、エルナが扉を開ける場面なんてなかった。真白さんのお話は、アリエスが口を開く手前で止まっていた。いつも同じところでスクロールが止まる、あの場所。さっき唇が開きかけた、あの瞬間だ。
今、そこを越えた。ここから先は、誰も書いていない。
背中がすうっと冷えた。怖いからなのか、別の何かなのか、わからなかった。
議長が口を開きかけた。そのとき、別の声が割り込んだ。
「一人の証言が変わったところで、残り5名の証言は有効でございます」
ヴァネッサだった。
立ち上がってはいなかった。座ったまま、静かに言った。声に感情がない。練習した言葉のように滑らかだった。
「加えて——この方が本当に当事者であるという確証は? 身分を偽って入城していた方の証言に、どれほどの信頼性がおありでしょうか」
広間が、今度はざわめいた。
エルナの顔が、わずかに固くなった。
(そうだ)
エルナは身分を隠していた。王家が秘密裏に受け入れていたことは、公にはなっていない。エルナが証言すればするほど、自分の立場が危うくなる。
ヴァネッサは、それを知っている。
議長が場を収めようとした。「順序に従い——」
「恐れながら」
また別の声がした。今度は、奥の方から。
王太子の隣に座っていた男が、立った。
(アルヴァン)
「当事者が証言を覆したのであれば、残りの証人に改めて確認するのが筋かと存じます。急ぐ理由がおありですか、ヴァネッサ殿」
短い言葉だった。でも広間の空気が変わった。
王太子が動かないのに、王弟が口を出した。周囲がざわついた。想定外だったんだと思う。ヴァネッサの目が一瞬だけ動いて、それからゆっくり口を閉じた。黙らされたんじゃない。考えている顔だった。
王太子は弟を見ていた。何か言いたそうだったけど、何も言わなかった。やっぱりこの人は動かない。
「ほ、本日の審議は、いったん中断といたします」
議長の声が響いた。広間が動き始める。椅子が引かれる音。衣擦れの音。ざわめきが、重なっていく。
終わっていなかった。何も解決していない。ただ、止まった。
エルナが大広間の端で、一人立っていた。さっきの毅然とした表情は消えていて、少しだけ疲れた顔をしていた。
(この人が)
名前だけ聞いていた人が、ここにいる。顔を見て、声を聞いて、初めてわかった。エルナは、こういう人だった。
次話:「まっすぐな背中」




