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私が書き終えた、大好きな悪役令嬢の話  作者: 夜凪 蒼


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第20話「消えなくていい場所」

断罪まで、5日になった。


朝、食堂に行った。いつもの席に座った。フィオナがいて、ライナスがいて、窓際にアルヴァンが座っている。


これが、いつもになっていた。


10日前はそうじゃなかった。食堂の扉を開けるたびに、ここは小説のなかだと確認していた。この人たちはキャラクターで、私はアリエスの体を借りているだけで、余計なことをしてはいけないと。


でも最近、食堂の扉を開けるとき、そういうことを考えなくなっていた。


パンの匂いがして、フィオナの声がして、ライナスが無言で皿を置いていて。それを受け取ることが、いつの間にか普通のことになっていた。


「アリエス様、今日のスープ、にんじんですよ」


「そうか」


「にんじん好きでしたっけ」


「……嫌いじゃない」


にんじんが好きかどうか、アリエスの設定にはなかった。私は現実では好き嫌いを考えたことがなかった。食べられるものを食べるだけだったから。


スープを飲んだ。にんじんの甘さが、じわっと広がる。


「アリエス」


アルヴァンの声がした。窓際の席から、こちらを見ずに言った。書類を見たまま。


「食事は取れているか」


また、その言葉。


前に一度聞いたときは驚いた。なんで王弟がそんなことを聞くのかわからなかった。でも今日は少しだけ、違う聞こえ方をした。


「……食えている」


「そうか」


アルヴァンはそれ以上何も言わなかった。書類に目を戻した。


フィオナがパンの残りを口に押し込んで、頬をふくらませたまま「んー」と唸った。ライナスが黙ってフィオナの前にナプキンを置いた。フィオナが「ふぁんきゅー」とくぐもった声で言って、ライナスが微動だにしなかった。


私はそれを見ていた。


この人たちは、私がいなくても朝ごはんを食べる。フィオナはパンを口に詰めすぎるし、ライナスは黙ってナプキンを差し出すし、アルヴァンは書類を読みながら冷めた茶を飲む。私がいてもいなくても、この人たちの朝は続いていく。


でも——私の席がある。


テーブルの上に、私の分のスープと、私の分のパンと、ライナスが増やした一皿。


あの部屋にはなかった。天井のシミが14個あるあの部屋に、私の席はなかった。お母さんがいたときも、食卓に私の分が並んでいたのかどうか、もうよく思い出せない。お父さんがいた頃は——あった気がする。でもそれも、もう遠い。


ここには、ある。


その事実が、なんだか不思議だった。不思議で、少しだけ喉のあたりが苦しかった。


午後、フィオナと歩いた。食堂の脇を抜けると、厨房の前の通路に出る。開いた扉から湯気と、煮込みの匂いが流れてきた。鍋のぶつかる音。誰かの笑い声。城の中に、こんなに音のある場所があるんだと思った。


「あ」


フィオナが足を止めた。厨房の中で、鍋をかき混ぜていた女の人がこちらに気づいて、目を丸くしてから小さく会釈した。


「厨房のマリーさんです。エルナと仲がよかった人。昨日、少しだけ話したんです」


フィオナは軽く言った。報告するみたいな口ぶりじゃなくて、世間話みたいに。


「……何か、言ってたか」


「アリエス様がエルナを庇ったこと、知ってました。ちゃんと見てた人がいたみたいです」


胸がざわついた。知ってる人がいた。ヴァネッサが集めている証言とは反対の——アリエスが誰かを守ろうとしたことを見ていた人が。


「断罪のあと、どうなるんでしょうね」


フィオナが言った。軽い声だった。


「……わからない」


小説に書かれていない。だから私にもわからない。でも——読んだ話のなかのアリエスが知らなかったことを、今の私は少しだけ知っている。ライナスが何を見ているか。フィオナが誰と話しているか。アルヴァンが王太子をどう見ているか。


それで断罪が消えるわけじゃない。何もかもが変わるわけじゃない。


でも、読んだ話のなかのアリエスは一人だった。私は——一人じゃない。


「でも、ここにいてほしいです。私は」


フィオナは前を向いたまま言った。特別な顔はしていなかった。歩きながら、思いついたことを声に出しただけみたいだった。


返事ができなかった。


アリエスならなんて言うんだろう。「好きにしろ」かもしれないし、黙って歩き続けるかもしれない。でも今、私の胸のなかで何かが動いていて、どの言葉を選んでいいかわからなかった。


夜、廊下を歩いた。


アリエスの習慣。眠れない夜に、一人で歩く。最初は演じていた。でもいつからか、体が勝手にここに来るようになっていた。足の裏が、この廊下の冷たさを覚えている。


窓の外に星があった。


現実の部屋の窓は小さかった。空が四角く切り取られていて、星はあまり見えなかった。ここからは、たくさん見える。


立ち止まって、見上げた。


あの部屋で、私は消えてもいいと思っていた。消えても誰も気づかないし、誰も困らないと思っていた。


今もそう思えるかというと——


フィオナが笑った朝の食堂。ライナスが黙って置いた焼き菓子。アルヴァンの「食事は取れているか」。


——わからない。まだ言葉にならない。


でも、明日の朝も食堂に行くんだろうなと思った。


今の私には、それくらいしかわからなかった。


次話:「まだ笑っていられる」

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