第19話「おいしい」
昼食のとき、また皿が増えていた。
デザートの隣に、小さな皿が一つ。焼き菓子が3つ載っている。表面にうっすらと粉砂糖がかかっていて、横に小さな木の実が添えてあった。
ライナスが厨房のほうから戻ってきて、何も言わずに自分の席に着いた。
私はその皿を見ていた。
前からそうだった。朝食の一皿が、いつの間にか増えている。私が気づいたときにはもう置いてあって、ライナスは何も言わない。聞いても「はい」としか返ってこない。
(なんで、この人は)
小説のなかのライナスは、護衛騎士だった。アリエスを守る。それが職務で、それ以上のことは書かれていなかった。真白さんはライナスの内面をあまり書いていない。だから私には、この人が何を考えているのかわからない。
でも最近、少しだけ見え方が変わった。この人は城のなかの動きを見ている。誰がどこにいて、何が変わったか。護衛騎士として当然のことなんだろうけど、それを私に伝えてくれる。聞けば答えてくれる。読んだ話のなかのアリエスは、この人の目を借りなかった。私は借りている。
焼き菓子を手に取った。軽かった。指で押すとほろりと崩れそうな感触。
口に入れた。
甘い。バターの匂いが鼻に抜ける。生地がやわらかくて、噛むと粉砂糖がしゃりっと溶けた。木の実の部分は少し苦くて、甘さの後ろからついてくる。
現実で、甘いものを食べたのはいつだったか。
コンビニの廃棄のメロンパン。あれが最後だったかもしれない。袋を開けたとき、ほんの少しだけ甘い匂いがした。でもあのときは味がよくわからなかった。お腹が空きすぎていて、噛むことと飲み込むことだけで精一杯だった。
今は、味がする。
甘くて、やわらかくて、少しだけ苦い。ちゃんと味がする。
「……ライナス」
名前を呼んだ。自分で呼ぼうと思ったのか、口が勝手に動いたのか、わからなかった。アリエスの声が出た。低くて、落ち着いた声。
ライナスが振り返った。
「なんで——」
言いかけて、止まった。
なんで気づくのか。なんで何も聞かずにこうするのか。なんで私のために厨房まで行くのか。聞きたいことが、たくさんあった。でもそのどれも、口から出てこなかった。
アリエスは弱みを見せない。人に頼らない。自分のことを聞いてほしいと思わない。それがアリエスで——でも今、聞きたかったのは私だ。三枝ひかりが聞きたかった。
「……なんでもない」
「はい」
ライナスは前を向いた。
でも、もう一つだけ聞いておきたいことがあった。
「……西棟は、まだ使われているか」
小さな声で聞いた。ヴァネッサが証人と会っている場所。前にライナスが教えてくれた。
ライナスの肩が、わずかに動いた。
「昨日も使われていました。人数が増えています」
それだけだった。でも十分だった。ヴァネッサはまだ動いている。止まっていない。
知っていても止められない。でも、知らないよりはいい。何が起きているかわかっている方が、あの場に立ったとき——少しだけ、足が震えない気がする。
2つ目の焼き菓子を食べた。1つ目と同じ味のはずなのに、少しだけ違った。粉砂糖が多いのか、それとも私が変わったのか。
3つ目に手を伸ばしたとき、指先が少し震えた。
誰かが自分のために選んでくれたものを食べている。余ったものじゃなくて、厨房まで行って、わざわざ取ってきたもの。それが目の前にあって、私はそれを食べている。
「……おいしい」
声に出すつもりはなかった。口のなかに甘さが残っていて、それと一緒に言葉が漏れた。
ライナスは何も言わなかった。前を向いたまま、スープの器を持ち上げた。
フィオナがこっちを見て、にっと笑った。「ライナスさんの見立ては外れないんですよ」と小声で言った。
「……うるさい」
アリエスの声で言った。でも顔が、少しだけ熱い。
皿の上に粉砂糖の跡だけが残っていた。
食堂を出るとき、廊下で侍女とすれ違った。朝の挨拶をしなくなった人の一人だ。
でも今日は、目を逸らさなかった。ちらっとこっちを見て、小さく頭を下げた。小さなことだったけど。
フィオナが何か話したのかもしれない。あるいは、庭でフィオナが私のそばで笑っているのを見たのかもしれない。わからない。でも、昨日まで目を逸らしていた人が頭を下げた。
大きな変化じゃない。ヴァネッサの証人集めが止まるわけでもない。断罪が消えるわけでもない。
でも——一人じゃないかもしれない、と思えることの重さが、今の私にはわかる。
あの部屋で一人だったとき、誰かが頭を下げてくれたことなんかなかった。
ライナスが見ていること。フィオナが話していること。私がそれを受け取っていること。
小さなことだ。ヴァネッサの証人が何人いるかもわからない。王太子がどう動くかもわからない。でも、何もせずに黙っているよりは、今のほうがいい。少なくとも、私は一人じゃない。
指先に、まだ粉砂糖の感触が残っていた。
次話:「消えなくていい場所」




