第18話「いつも通り」
翌朝、食堂に行くのが少し怖かった。
昨夜あんなことを言ってしまったから。フィオナが私のことをどう見るか。気を遣われるのも、何か聞かれるのも、やさしくされるのも——全部、想像するだけでお腹のあたりがきゅっとなる。
でも行かないわけにはいかない。アリエスは朝食を食堂でとる。それがこの世界の日常で、私がそこにいないと不自然になる。
食堂の扉を開けた。
パンの焼ける匂いがした。小麦が焦げる手前の、あのやわらかい匂い。窓が明るくて、テーブルの上のスープが湯気を立てている。
フィオナが振り返った。
「おはようございます、アリエス様」
いつもの声だった。
昨夜のことを何も知らないみたいな顔で、椅子を引いて座っている。パンを半分にちぎって、スープに浸している。口のまわりにパンのかけらがついていて、それに気づいていない。
ライナスは窓際の席で、黙ってスープを飲んでいた。遠くの席でアルヴァンが何かの書類を広げている。
いつも通りだった。
私は席に着いた。
スープに手を伸ばす。温かい。かぼちゃのスープだ。ぽってりと重たくて、匙を入れるとゆっくり崩れる。口に運ぶと、甘さが舌の上に広がった。
「昨日の夜、星がきれいだったですね」
フィオナがパンをちぎりながら言った。
「……見てたのか」
「窓から少しだけ。アリエス様の部屋のほう、明かりが遅くまでついてたから、起きてるのかなって」
それだけだった。昨夜のことには、触れなかった。
一度だけ、フィオナがこちらを見た。いつもの丸い目。何かを言いたそうにも見えたし、何も考えていないようにも見えた。
「今日、お庭のばらが咲いたんですよ。白いやつ。見に行きませんか」
「……そうだな」
「やったあ」
フィオナが笑った。パンのかけらが唇についたまま笑っていて、私は一瞬、何も考えられなかった。
昨夜、あんなことを言った。消えていてもよかったと。アリエスが絶対に言わない言葉を。
なのにフィオナは、今朝もパンをちぎっている。スープに浸している。口のまわりを汚している。私の隣に座っている。
変わらない。何も変わっていない。
そのことが——なんだろう。嬉しいとか、安心したとか、そういうはっきりした言葉にはならない。ただ、胸のあたりに詰まっていたものが、少しだけゆるんだような。
パンをちぎった。フィオナの真似をして、スープに浸してみた。パンが崩れて、スープの色がほんのり白くなる。
食べた。温かかった。
「アリエス様、卵もいりますか」
「……もらう」
「はーい」
フィオナが立ち上がって、厨房のほうへ駆けていった。足音がぱたぱたと遠ざかる。
厨房のほうから、フィオナの声が聞こえた。卵をもらっているんだと思う。でもそれだけじゃなさそうだった。厨房の人と何か話し込んでいる。笑い声が混じっている。
——昨夜、あの子は「使用人のなかに話を聞いてくれそうな人を知ってます」と言った。
もう動いてるのかな。それとも、ただ卵をもらいに行っただけなのかな。わからない。でもフィオナがあちこちで誰かと話すのは、もともとこの子のやり方だ。明るくて、距離が近くて、人が寄ってくる。私にはできないことを、この子は自然にやっている。
フィオナが卵を持って戻ってきた。「おまたせしました」と笑って、皿をテーブルに置く。
ライナスが黙ってこちらを見た。目が合うと、すぐに前を向いた。何も言わなかった。でも今朝のライナスの視線は、いつもより少しだけ長かった気がした。昨夜の廊下で、フィオナが私の部屋に来たのを知っていたのかもしれない。護衛騎士は、そういうことに気づく。
窓の外で、鳥が鳴いていた。
私は二口目のスープを飲んだ。まだ冷めていなかった。
午後、約束通り庭を歩いた。白いばらの前でフィオナが「きれい」と声を上げたとき、庭の手入れをしていた使用人の女の子がこちらを見た。
目が合った。私を見ている——というより、アリエスを見ている。その目には怯えがあった。廊下ですれ違う人たちと同じ目。告発されている令嬢の前で、どうしていいかわからない目。
フィオナが使用人の子に話しかけた。「このばら、いつ咲いたんですか」
「……今朝です。夜のうちに開いたみたいで」
「すごい。一晩で。ねえ、アリエス様、聞きました?」
私はうなずいた。使用人の子は少し戸惑った顔をしていたけど、フィオナが嬉しそうに笑うのを見て、口元がほんの少しだけ緩んだ。
風が吹いて、使用人の子が持っていた植木鋏が地面に落ちた。しゃがんで拾おうとしたのが見えて——私の手が先に動いていた。
拾って、差し出した。
使用人の子が固まった。目が丸くなっている。アリエスが使用人の道具を拾うなんて、たぶんこの世界ではおかしいことなんだと思う。アリエスの体はこういうことをしない。でも今動いたのは私の手だった。
「……どうぞ」
受け取った使用人の子が、小さく頭を下げた。怯えの目じゃなかった。戸惑いと、それから——ほんの少しだけ、何か別のもの。
フィオナがこっちを見ていた。何も言わなかった。でも目が笑っていた。
大きなことじゃない。植木鋏を拾っただけ。
でも使用人の子が帰り際に、もう一度だけこちらを振り返った。
次話:「おいしい」




