第17話「消えてもいい場所」
夜、フィオナが部屋に来た。
ノックもなかった。扉がかちゃりと開いて、金色の巻き毛が覗いた。私が窓辺に座っているのを見て、「やっぱり」と言った。
「眠れなかったんですか。私もです」
勝手に椅子を引いて座る。蝋燭の灯りが揺れて、フィオナの影が壁の上で伸びたり縮んだりした。
アリエスなら咎めるんだろうか。でも体は動かなかった。追い出す言葉が出てこない。アリエスの口が、今は黙っている。
フィオナの巻き毛が蝋燭の光で金に光っていた。部屋に人がいるというだけで、空気の重さが変わる。あの部屋では、誰かが来ることなんかなかった。
「断罪のこと、考えてましたか」
「……少し」
断罪のことは、考えていた。でもそれは断罪そのものじゃなくて、断罪のあとのことだった。小説では、断罪のあとにアリエスがどうなるかが書かれていなかった。真白さんの筆が止まったから。
「フィオナ」
自分で名前を呼んだことに驚いた。アリエスの口じゃなくて、私の口が動いた。
「……あの子のこと。私が庇った使用人の子のこと、覚えてるか」
フィオナがうなずいた。「エルナのことですか」
「あの子の本当の話を知ってる人が、もっといたら。庇ったのが悪いことじゃなかったって、知ってくれる人がいたら——何か、変わるのだろうか」
うまく言えなかった。何を変えたいのかも、自分でよくわかっていない。でもヴァネッサが一人ずつ味方を増やしているのを見て、私には誰もいないことが怖かった。
フィオナはしばらく黙っていた。
「……私、使用人のなかに何人か話を聞いてくれそうな人を知ってます。エルナと仲がよかった子とか」
「無理はしなくていい」
「無理じゃないです。ただ話すだけです」
フィオナの声は静かだったけど、目がまっすぐだった。この子は、頼まれたからやるんじゃない。自分で動こうとしている。
「怖いですか」
フィオナの声は、暗い部屋のなかでやけにはっきり聞こえた。
「怖い、という感じとは……違うかな」
正直に言った。怖いってよくわからない。怖いっていうのは、たぶん、何かを守りたい人が感じるもので。
「じゃあ、どんな感じですか」
フィオナが膝の上で手を組んで、こっちを見ていた。責める目じゃなかった。怒ってもいない。知りたいだけ、という顔。私はそういう目を、あまり向けられたことがなかった。
何を答えればいいかわからなくて、窓の外を見た。月が出ていた。薄い雲が少しかかっている。
口が動いた。
「……消えていても、よかったかなって」
言った瞬間、自分の声が遠くに聞こえた。
何を言ったんだろう。なんでそんなことを言ったんだろう。これはアリエスの言葉じゃない。アリエスはこんなことを言わない。これは——
「ここに来る前」
付け加えた。声が震えそうだったから、短く言った。
「消えてても、たぶん、誰も——」
途中で止まった。その先を言葉にする方法がわからなかった。
フィオナは何も言わなかった。
椅子に座ったまま、じっとしていた。蝋燭の炎が揺れる音だけが、しばらく続いた。蝋が溶ける匂いが、鼻の奥にじわりと広がる。
どのくらい経ったかわからない。
フィオナが、静かに口を開いた。
「今は」
一言だった。
「……今は」
繰り返した。答えが出てこなかった。消えていてもよかった。そう思っていた。ずっとそう思っていた。でも今それを同じように言い切れるかというと、なんだか——
「わからない」
正直に言った。
わからなかった。消えていてもよかったと思っていたはずなのに、今は、その言葉がうまく口から出てこない。それが何を意味するのかもわからない。
フィオナが立ち上がった。
「おやすみなさい、アリエス様」
いつもの声だった。重くもなく、腫れ物に触るみたいでもなく。ただ今日の終わりを告げる声。
「……おやすみ」
扉が閉まった。
一人になって、さっき自分が言ったことを反芻した。
二つのことを言った。使用人の子のことと、消えていてもよかったということ。どっちもアリエスが言うはずのない言葉だった。
でもフィオナは、どっちも受け取ってくれた。片方には「話を聞いてくれそうな人を知ってます」と返して、片方には「今は」と返した。
読んだ話のなかで、アリエスはフィオナに何も言わなかった。「信じてます」を受け取らなかった。一人で歩いていった。
私は、受け取ってしまった。受け取って、その上に自分の言葉まで乗せてしまった。
これでいいのかな。物語を壊していないかな。
わからない。でも、一人で黙っているよりは——少しだけ、息ができる。
胸の奥が、変な感じだった。痛いのとは違う。何か詰まっているみたいな。でもさっきよりは、薄い。
蝋燭がちりちりと音を立てていた。窓の外の月が、少しだけ明るくなっていた。
次話:「いつも通り」




